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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第7回)

第6回はこちら

松本平広域公園総合球技場は陸上トラックのない、サッカー専用のスタジアムだ。
『アルウィン』という愛称のそのスタジアムへ14,494人の観客が詰めかけたのは2009年10月11日、天皇杯2回戦でのことだ。

松本山雅対浦和レッズ。

ホーム側ゴール裏はいつもと大差なく緑色に染められていた。
大きく違っていたのはアウェイ側ゴール裏の風景。
普段ならば― AC長野パルセイロとのダービーマッチを除いて― 薄いグレーのコンクリート製立ち見席にアウェイサポーターの小集団がいる程度の殺風景なスタンドが、ぎっしりと埋め尽くされていた。
見慣れていたコンクリートの灰色とは違う赤いゴール裏を目にして、小林陽介はこれから古巣と対戦するのだということを改めてヒシヒシと感じていた。

「ロッカールームに荷物を置いてからグラウンドのチェックに行ったときにスタンドを見たんですけど、『あぁ、レッズはやっぱり凄いな』と思わされました。今までに見たことのないアルウィンの雰囲気でした」

小林はそう述懐する。

2003年シーズンをもってレッズを離れて以降、練習試合での対戦は経験していた。しかし、公式戦で当たるのははじめてのことだった。
「レッズをクビになったときに、『もう1度プロになる』という夢があって、もうひとつ、夢と言うほどのものじゃないかもしれないですけど、『レッズと公式戦で試合をして、勝つ』ということがあったんです。なので、『ここで公式戦での対戦が来たか』という感じでした」


13時1分、レッズボールでキックオフされた試合、松本は労を惜しまぬ守備からシンプルな攻撃を展開。
12分には、自陣右でボールを奪ってロングフィード、レッズDFライン裏へのパスにFW柿本倫明が抜け出してGK山岸範宏と1対1となり、見事に決めて先制する。
その後、より一層の攻勢に出たレッズに押し込まれる松本だったが、ゴール前に人数をかけて死守。レッズ側のシュートミスもあり、リードしたまま前半を折り返す。
後半、松本イレブンは中盤ではレッズの選手たちに複数でしつこく食らいついて楽にはプレーさせず、押し込まれれば身を挺してゴール前の壁となった。
27分には、カウンターから攻め入ってチャンスを作り、クリアミスを蹴り込んで追加点を挙げる。
2-0として以降は、さらなるカウンターのチャンスも生まれた。
35分には小林がドリブルで中央から左へ流れながらシュート。疲れの見えはじめたレッズを相手に押し込み、2分後にはゴール前にフリーで駆け上がって左からのクロスに合わせたが、小林のシュート
は惜しくも枠を外れる。
前半にペナルティエリア外から打っていた1本と合わせ、小林のシュートは3本。チーム全体の数は9。
対するレッズは20本のシュートを放ったもののゴールをこじ開けることができないまま、試合は2-0で終了となった。

「勝ちたいって気持ちはありましたけど、それ以上にいい経験でした」
あの日の試合後、小林はそう感想を述べている。
「レッズは1人1人はやっぱり上手くて、レベルが高かった。全然レッズの方が上です。ゴール前に入ってくる迫力もありました。僕らは耐えて耐えてという感じで、声掛け合いながらやっていて、レッズは声掛け合ってないわけじゃないんだろうけど、もうちょっとコミュニケーション取ってやってもいいのかなと思いました」
クラブの歴史に残り続けるであろう大金星は、素直に嬉しかった。
《公式戦でレッズに勝ちたい》という夢が叶ったことに、感慨もあった。
しかし、いつまでも喜びにひたっているわけにはいかない。
レッズ戦から6日後、松本山雅FCにとっては天皇杯よりもはるかに重要な試合が待ち受けていたのだ。

全国社会人サッカー選手権大会。

この大会で決勝戦まで駒を進めた2チームには、その後に開催される全国地域サッカーリーグ決勝大会への出場権が与えられる。そして、その大会で再び決勝戦まで勝ち上がることができれば、JFLへの昇格が待っている。
「絶対にJFLに昇格しないといけない。それを最大の目標として、自分のサッカー人生を賭けてみよう」
そんな「並々ならぬ覚悟を持って」、小林はこの2009年から松本の一員になっていた。
しかし、北信越1部リーグではライバルチームとの直接対決でことごとく勝ち星を挙げられず後塵を拝する結果となり、成績は4位。
JFL昇格を実現するためには、全国社会人サッカー選手権大会と、その後につづく地域サッカーリーグ決勝大会を勝ち上がるしかなかった。

レッズ戦から6日後の10月17日、千葉県市原市にて社会人サッカー選手権大会はスタート。
5勝すれば優勝というトーナメントだったが、その5試合を5日連続でこなすという過酷なものだった。
1回戦を4―0、2回戦を2―1で突破した彼らは3連戦目となる準々決勝をPK戦の末に勝ち上がり、準決勝でAC長野パルセイロと激突。小林のゴールもあって3―1で長野を下して決勝大会への出場権を獲得すると、勢いに乗ってツエーゲン金沢とのファイナルも制した。

地域サッカーリーグ決勝大会が開かれたのは、それからひと月あまりが経った11月下旬。
まずは4グループに分かれての1次ラウンド。福島・富山・鳥取・高知の各県でグループごとのリーグ戦が行なわれた。
小林たち松本山雅は鳥取へと移動、3日間で3試合をこなして3戦全勝。小林も2ゴールを記録し、1位で予選リーグを突破する。
決勝ラウンドは12月4日から。
開催場所はありがたいことに彼らのホーム『アルウィン』だった。
決勝ラウンドの方式は各グループを1位通過した4チームの総当たり戦。初戦こそ金沢にPK戦の末に敗れはしたものの勝ち点1を獲得(勝者が勝ち点2)。翌日の2試合目を1―0で制すると、12月6日、最後の3戦目を迎える。
対戦相手は日立栃木ウーヴァFC。
アルウイlンに詰めかけた観客数は10,965。
天皇杯でのレッズ戦よりも約3500人少ない。その観客数の差は、あの日松本まで足を運んだレッズサポーターの数を差し引いて考えれば「わずかに3500人」と評していいものだった。

13時20分、晴れ空の下、試合がはじまる。
松本は前半14分に先制を許したものの、地元の大声援を受けて8分後には同点に。
そして43分には逆転に成功する。
背番号『10』柿本の右からの折り返しをゴール正面でプッシュしたのは、DFの背後を衝いてフリーで入り込んでいた『11』番、小林陽介だった。
試合は、このリードを守り切って松本が勝利。
優勝でJFL昇格を成し遂げる。

小林にとっては、2度目の昇格経験だ。
1度目は熊本でJFLからJ2へ。
そして、この松本での、地域リーグからJFLへの昇格。
カテゴリーこそ熊本での経験の方が上だが、喜びや充実度は松本での昇格の方が大きかった。
違いを生んでいるものは、自身が感じることのできるチームへの貢献度。
そして何より――。
「試合に出て、FWとして点を取れた。しかも大事な試合で点が取れた。それが一番大きいのかもしれないです」
小林はそう振り返る。
FWとしての責任を果たしたという達成感が強くあった。

小林の決勝ゴールから3日後の2009年12月9日。
日本フットボールリーグ評議員会が開かれ、松本山雅FCのJFL加盟は正式に承認された。

(最終回へつづく)


この原稿はメールマガジン第16号(2013年11月14日配信)から転載したものです。
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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第6回)

第5回はこちら



2008年、J2は新たにFC岐阜とロアッソ熊本という2クラブの参加を得て、全15チームへ拡大。それに伴い大会方式も変更。前年までのホーム&アウェイを2度ずつ行なう4回戦総当たり方式から、3回戦総当たりへと変わり、3月8日に開幕した。

スタートから首位を走ったのは『降格組』のサンフレッチェ広島。
ミハイロ・ペトロヴィッチが指揮するチームでは、柏木陽介・槙野智章をはじめとして、森脇良太・高萩洋次郎ら若手が躍動。森脇は6月に負傷して戦列を離れたものの、彼らが作ったチャンスをFWの佐藤寿人がきっちりとネットにおさめ、9月中にはJ2での優勝を決定。佐藤は得点王を獲得し、チームは第1節から最終45節まで首位の座を明けわたすことのない盤石の強さでJ1復帰を果たす。
もう1枚の昇格切符を手にしたのはモンテディオ山形。
監督は小林伸二、キャプテンは浦和から新潟を経て山形へと移籍していた宮沢克行。J2参加10年目にして悲願の昇格を成し遂げる。
新たにJ2参入を果たしたFC岐阜とロアッソ熊本は、全15チーム中13位と12位という成績でシーズンを終えた。
熊本に所属する小林陽介の出場は3試合、151分だった。

「正直もう少し出られるかなと思ってたんですけど、なかなかメンバーにも入れませんでした。それでも諦めず、チャンスはあると思ってひたすら練習に励んでいまいしたね」
小林はそう振り返る。
出番が巡ってきたのはシーズンも終盤に入っての第37節、15,588人もの観衆を集めて行なわれた、ホームでの横浜FC戦。
0-0で迎えた後半開始から、小林はピッチに立つ。
2002年にレッズトップチームの一員となってから6年半以上もの月日をかけ、ようやく迎えたJリーグデビューの瞬間だった。
この横浜戦は終了間際に熊本がゴールをもぎ取り、1-0でシーズン8勝目を記録。
つづく第38節、39節と小林は連続出場を果たした。
しかし、その後は天皇杯での途中出場とリーグ戦での一度ベンチ入りをしただけで、シーズン末にはクラブから契約満了を言い渡されてしまう。

「熊本では、街のヒーローみたいな扱いをしてくれましたし、Jリーグでプレーすることも叶えさせてもらった。そういう特別な経験をさせてくれたチームだったので、できれば長くいたかったんですけどね……」

そう口にして、小林は苦笑いを浮かべる。
レッズ時代につづく、再びの契約満了。
2度目とはいえ、慣れるような類いのものではない。やはり暗い気持ちになってしまうことは、抑えきれなかった。
「レッズのときは2年でクビになって、熊本でも同じだったので、宣告されたときは『また2年でダメか』という感じでした」

ただし、試合に出場することのないまま契約満了を迎えたレッズ時代とは異なり、このときの彼はすでにJFLで数多くの実戦をこなしてきている選手だった。
当然、彼のプレーを知る関係者は多く、そのうちの少なからずが小林に興味を持ってくれていた―― 12月16日、大阪、長居陸上競技場で開催されたJリーグ合同トライアウトに小林は自身3度目の参加をするものの、実はトライアウト以前に非公式なオファーを受けていたのだ。
北信越1部リーグに所属する、松本山雅FCからだった。
当時、松本山雅の監督を務めていたのが吉澤英生。
松本の監督に就任する以前、吉澤はHonda FCやFC琉球を率いてJFLを戦っており、その際に対戦相手として出会った小林のプレーを買っていた。熊本を指揮する池谷友良とも旧知の仲で、J2に昇格したチームにあって小林が出番のない状況にあることを知ると、池谷に彼の期限付き移籍を持ちかけたこともあったほどだった。

長居でのトライアウト後、小林は吉澤と面談。その後、電話でのやり取りを重ねた末、小林は松本と契約を結ぶこととなる。
提示されたそれは、チーム内ではまだ数少ないプロ契約だった。

「それまでは、『松本山雅』というチームの名前は聞いたことはありましたけど、どんなチームかは知らなかったし、長野県に行ったこともなかった。話を貰ってからクラブのホームページをのぞいてみたり、ネットでいろいろと検索してみたんです。そしたら、『サポーターが熱い』と評判になってた。スタジアムもサッカー専用ですごく立派でしたし、『これは面白そうなチームだ』なとワクワクしました」

ロアッソ熊本から松本山雅へ。
J2から、JFLのさらに下、地域リーグへの移籍。

にもかかわらず、小林の胸の内には新天地での期待と希望が生まれはじめる。
それと同時に、調べれば調べるほど、関係者に話を聞けば聞くほど、自分に求められていることは「ワクワク」という言葉で表現していいほど軽いものではないとの理解も進んでいった。
「地域リーグは試合数が少ないぶん、1試合の重みが違いますし、JFLへ上がるための全国社会人トーナメントや地域決勝大会は5連戦、3連戦というスケジュールで、自分にとって未知の世界で……。JFLへの道は想像していた以上に険しいんだなと思い知らされました。山雅はそれまでの2年間でJFL入りを目指しながら失敗してもいたので、『今回こそ絶対に上がるんだ』という気持ちが強くて、そのために僕へ掛けてくれる期待もすごく大きかったんですよね」
それは、かつて感じたことのないほどのプレッシャーでもあった。

浦和レッズを契約満了となって横河武蔵野FC入りを決めたときも、横河から熊本への移籍に際しても、小林は自分自身で選択をなし、周囲にはほとんど事後報告で済ませていた。
しかし、この松本への移籍の際には、妻はもちろんのこと自分の両親と妻の両親、そして、かつて所属したチームでお世話になり、信頼を置いていたトレーナーにも意見を求めている。

悩み抜いた末に、小林は決断をくだす。
「絶対にJFLに昇格しないといけない。それを最大の目標として、自分のサッカー人生を賭けてみよう、と。並々ならぬ覚悟を持って松本に行くことにしました」

そして山雅へ移籍した2009年の10月、数奇な運命の末に、彼は浦和レッズとの再会を果たすこととなる。



第7回はこちら


※この原稿はメールマガジン第13号(2013年10月24日配信)から一部を転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 1 阪野豊史

●大原ノートから 2 山田直輝

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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第5回)

(第4回はこちら)


横河武蔵野FCでの1年目、小林陽介はリーグ戦30試合中29試合に出場、12ゴールを記録。
翌2005年も同じく25試合でプレーしたものの、得点は3にとどまる。
3シーズン目となった2006年。
JFLは加盟クラブが2つ増え、18チームへ。前後期合わせて全34節が行なわれ、小林は33試合に出場。
積み上げたゴールは、23にのぼった。
小林はこう振り返る。
「ポジショニング、ゴール前への入り方やシュートの技術というのは良くなったと思います」
そのどれもが、チーム練習後の居残りで試行錯誤しながら磨いていったものだった。

「あとは、それまで以上にガムシャラさがありましたね。『何が何でも』という気持ちが、3年目はすごく強かったです」

3年という時間は、小林にとってひとつの区切りだった。
小林の目標は、もう一度プロサッカー選手になること。一方で、所属する横河武蔵野FCは、プロ化に踏み切るつもりはないようだった。
「もう3年目なのだから」と、わかりやすい結果を出して他のクラブの目に留まらなければという危機感は強かった。時折組まれるJクラブとの練習試合では、JFLの公式戦以上に気負ってしまう部分もあるほどだった。

しかし、33試合23得点という結果を残しても、他のクラブからオファーが来ることはなかった。
そこで小林は、オフシーズンに開催されるJリーグ合同トライアウトへの参加(JFL所属選手も参加可能)をクラブに願い出た。
小林の目標を知るクラブはこれを了承。
年が明け、迎えた2007年1月9日、フクダ電子アリーナでのトライアウトに参加する。

この小林の決断は功を奏した。
トライアウトを終えてまもなくロッソ熊本(当時)から声がかかったのだ。
熊本は、前年の2006シーズンに九州リーグからJFLへ昇格してきたばかりのチームだったが、そのJFL初年度を横河よりひとつ上の5位で終えていた。トライアウトの半年前にあたる2006年の夏には、Jリーグ準加盟の承認も受けている。

小林に示された契約内容は、サッカーをすることでお金が貰えるというものだった。
つまりは、彼が目指していたプロ契約。
「もう1回プロ選手としてサッカーができるということになって、レッズユースからトップに上がったときのような高揚感がありました」
2007年1月末、小林は熊本と契約を結び、プロ選手としての『第二歩』を踏みだすこととなった。


東京都板橋区で生まれ育った小林にとって、生活の拠点を関東圏以外に定めるのははじめてだった。若干だが、不安もあった。
しかし、熊本の人たちは温かかった。
ファン・サポーターとの距離は、浦和や横河在籍時に比べとよほど近いもので、それが心地よくもあった。
たとえばレッズ時代、大宮駅や浦和駅周辺を歩いていても、小林が声を掛けられることはほとんどなかった。選手のプライベートを気遣うべきという認識がファン・サポーターの間に浸透しているためであり、同時に、彼自身の知名度の低さが理由でもあった。ごく希に声を掛けられはしたものの、それは、当時頻繁に行動を共にしていた千島徹の存在によるものだった。
「まず徹君がファンの人に気付かれて、その後に徹君の隣にいるオレも、ついでに気付かれるって感じでしたからねえ」
苦笑しつつ、小林は述懐する。
だが、熊本は違った。
『熊本にJクラブを――』
そういった気運が、当時の熊本の街にはあった。
「だから、その街のスターみたいな感じで扱ってくれるんですよ。街を歩いていて『頑張ってね』と声を掛けてもらえることが多かったです」
3月18日にJFL前期が開幕し、その試合で小林はベンチ入り。3日後の第2節では途中出場でロッソでのデビューを果たす。
その後、試合出場を重ねるにつれ、街角の老若男女からの声援は増していった。
「それが、サッカー選手として、すごく嬉しかったです」と彼は語る。

この熊本での1年目、小林は22試合に出場、5ゴールを記録することになる。
その間、11月11日には、アウェイでFC琉球を4-0と降したことでJ2昇格条件の4位以内を確定させてもいた。
「自分自身の貢献度という点では満足はしてないですけど、ひとつのミッションをみんなで成し遂げた達成感はありました。何が何でもJ2へ上がるって感じがあったので、それが実ったのは嬉しかったです」

小林が4歳上の女性と婚姻届を役所に提出するのは、このFC琉球戦当日の11月11日だ。
小林にとって、ラッキーナンバーは生まれてはじめて付けた背番号である『33』だったが、憧れていたのは少年時代からのヒーロー三浦知良の『11』。横河での3シーズン目には、念願叶ってその番号
を付けてもいる。
これにちなんで11月11日に入籍しようということは、ふたりで話し合って決めたことだった。
沖縄から熊本に戻り、彼らは熊本市役所に駆けつけ、日付が変わる前に何とか届け出を終えている。

妻となった女性とは、横河所属1年目の夏にチームメイトの紹介で出会っていた。3年数カ月の交際期間のうちには、10ヶ月ほどの遠距離恋愛が含まれている。
そのきっかけはもちろん、小林の熊本への移籍だ。
だが、ロッソからのオファーを報告したとき、彼女は反対の色を微塵も見せなかったそうだ。
「もう1度プロになることが自分の目標、夢だってことは知っていたので、すごく喜んでくれました」
照れたそぶりも見せず、そう口にする。
サッカーにつていも同様だが、自分が愛情を注ぐものについて語るときの小林はストレートだ。

ふたりが式を挙げるのは入籍から2ヶ月後の2008年1月。
都内で開かれた宴には、ロアッソ熊本の監督・池谷友良をはじめ、横河時代にお世話になった酒屋の店主夫妻らが主賓として招かれ列席。披露宴での余興と場所を変えての2次会では、横河時代のチームメイトが中心となり、そこにレッズユースの仲間たちが加わって盛大にふたりの門出を祝福した。

(第6回へつづく)


※この原稿はメールマガジン第12号(2013年10月17日配信)から一部を転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『天皇杯モンテディオ山形戦 再会』

●『WARRIORS IN RED ―リライト』& こぼれ話 堀之内聖
        
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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く EXTRA 堀之内聖

(全2回の2)
(その1はこちら)

10月6日、東京・西が丘の味の素フィールドでのJ2第36節。
対戦相手は横浜FCだった。
昨年所属していたチームとの一戦に、堀之内はボランチで先発。
両サイドバックが果敢に攻め上がる山形は、ともすればバランスを崩しがちとなる傾向があったのだが、堀之内は自身のポジショニングで攻守の均衡を上手く保っていた。
試合はアウェイながら山形が圧倒しつつも、0-0のまま進んだ。
しかし、先制は横浜。
後半9分、選手交代を機に横浜はシステムを変更。この変化に対応しきれないうちに流れを譲った末、山形はPKを献上してしまう。

圧倒的に攻めていながら喫した先制点に、山形の選手たちは数瞬だが立ち尽くした。
真っ先に動いたのは堀之内。
ネットを揺らしたボールがまだゴール内でバウンドしているうちに駆け寄ると、ボールを拾い上げ、踵を返してセンターサークルへと向かった。

その後、山形は流れを引き戻す。
しかし、ゴールを割ることができない。
時間の経過と共に焦りが募っていく。
後半24分には、横浜エンド中央付近でボールを持った堀之内が、相手ボランチに背後からチャージされて転倒する。
山形のFKとはなったものの、そのファウルは主審がイエローカードを提示することもない程度のものだった。
しかし、立ち上がった堀之内は怒りを抑えようともせず相手選手に詰め寄る。非常に希なことだった。
この試合に掛ける彼の思いが、表に現れた場面のひとつとだった。

試合は0-1のまま90分を迎え、アディショナルタイムに突入。
そして90+2分、ゴール前のこぼれ球を山形が押し込んで1-1に。
試合終了の笛が鳴ったのは、それから3分あまりが経過してからだ。
堀之内は自陣ペナルティエリア内右で座り込んでいた。
最後のプレーで、途中出場の永井雄一郎のドリブルに追いすがった末、同僚と2人がかりで彼の突破を防いだ直後だった。
右ふくらはぎは痙攣を起こし、すぐに立つことはできなかった。
チームメイトにふくらはぎを伸ばしてもらってから、堀之内は右足を引きずり気味に歩き、試合後の挨拶を交わすために整列しつつあるチームメイトの後方へ加わる。
相手チームの同じような位置には、仏頂面を浮かべる永井の姿があった――。
後半35分、1-0の時点で投入されていた永井にとって、自分が出場してからの同点弾は屈辱的と言っていいものだった。
永井は浮かない表情のまま、山形イレブンとおざなりの握手を交わしていく。
ようやく満面の笑みをたたえたのは、目の前に堀之内が来た瞬間だった。
ふたりは互いの右手を、固く握りあった。


堀之内が取材エリアに現れたのは、試合終了から50分近くを経て。シャワーを浴び、チームスーツに着替えた後の時間を、お世話になった横浜FCの選手・スタッフらと旧交を温めるのに費やした後のことだ。

「個人的には、前半飛ばしすぎて危なかったです」
それが、彼の第一声。
前所属チームとの初対戦(3月末に山形で行なわれた横浜戦では移籍後初のベンチ入りを果たしたものの、出場はないまま)だっただけに、気合いが入り過ぎたことを、苦笑しながら明かす。
「そういう気持ちを出すと上手くいかないことが多かったので、試合前はあまり意識しないようにとは思っていたんですけどね」
再び苦笑を浮かべ、そう口にした。

「試合後には横浜のサポーターも声援をくれて、本当に嬉しかったですし、『まだやれてるよ』ということも見せられたと思います。それに、場所が東京ということで高校・大学時代の友だちも観に来てくれて、そういうことが力になったし、ホント嬉しかった」

ある意味では、この日の西が丘の主役は堀之内だった。
そう言っても決して大げさではないと、筆者は思っている。

その後も、彼を囲む報道陣の輪はしばらくの間、解けることがなかった。
10日後には、浦和駒場スタジアムでの天皇杯3回戦が控えていたからだ。

大学卒業後の10年間を過ごしたチームとの初対戦について問われた彼は、次のように答えている。

「まずは試合に出られるように、しっかりと準備したいです。浦和も試合が詰まってますし、どんなメンバーで来るかはわからないですけど、どんなメンバーが来たとしても、強いですからね」

そう言って、この日幾度目かとなる笑顔を浮かべると、こう続けた。
「そのことは、僕が一番知ってますから」


来たる10月16日――。
駒場には、山形サポーターから堀之内へのエールが2種類、鳴り響くことを筆者は期待している。
ひとつはレッズ時代に生まれた、「ホ・リ・ノウチッ、ホ・リ・ノウチッ」と、彼の姓を連呼するコール。
もうひとつが、かつて山形に在籍した選手のチャントを受け継いだもの――。
その選手は、2004年にブラジルから来日したレオナルド。185㎝・82㎏という屈強な体躯を活かし、彼はゴール前の砦として立ちはだかると、前年を12チーム中8位で終えたチームを4位にまで引き上げる原動力の一翼を担った。
その後2009年まで計6シーズン、レオナルドは山形一筋でプレー。2008年にはクラブの悲願たるJ1昇格に大きく貢献した。
『山形サポーターにとってのレオナルド』とは、言ってみれば『レッズサポーターにっとってのギド・ブッフバルト』だ。
そんな存在だと評しても、誉めすぎではない。

そのレオナルドの応援歌を、堀之内聖は受け継いでいる。
彼はそれに値するだけの男だと、僕は思っている。

(了)

※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月10日配信)から一部を転載したものです。
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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く EXTRA 堀之内聖

(全2回の1)

2011年、堀之内聖はリーグ戦5試合・カップ戦1試合にベンチ入り。しかし、出場機会は与えられないままに、浦和レッズでの10年目のシーズンを終えることとなった。
そして、リーグ戦終了から数日を経た12月7日、彼の契約満了が発表される。

「引退は……、考えましたね」

堀之内はそう振り返った。
「あの年は、本当に1分も試合に出ることができなかったので、サッカー選手として失格の烙印を押されたというか(苦笑)、『もう無理だよ』って暗に言われている感覚がありました。ケガもあってそういう結果になってはいたんですけど、実際のところ、自分がもう1年サッカーをできるのかという不安がありました。それに、自分がプロを続けたかったとしても、他のチームからのオファーがなければ、選手は続けられないので……。だから、本当に悩みに悩みました。悩んだ末に最後は、もし他のチームからオファーがあったら、受けよう。それがないのであれば、しょうがないな、と覚悟を決めていました」

その年のレッズは、リーグ戦終了後に行なわれた天皇杯4回戦で愛媛FCを破り準々決勝へ進出。平川忠亮・坪井慶介ら『79年組』は《ホリと一緒に国立に行く》と意気込んでいた。しかし、つづくFC東京との試合に敗れ、シーズンの終幕を迎えることとなる。
敗戦翌日の12月25日、チームは大原サッカー場に集合して15分ほどのミーティングを行ない、シーズンの全活動を終えた。
その後、堀之内はグラウンドに出ると、5、6名の同僚たちと共に1時間ほどもリフティングゲームに興じた。ゲームの終わりと同時に彼の身体はチームメイトたちに囲まれ、気づいたときには宙を舞っていた。
それが、10年間慣れ親しんだ大原との別れだった。

チームが天皇杯を戦っていた間、堀之内の元へ届いたオファーはなかった。
ジリジリした気持ちのまま、めでたいはずの新年を迎える。
吉報が届くのは年明けから数日が過ぎてのこと。電話をもらい、翌日には直に会って話を聞き、間もなく契約書にサインを記す。
その相手が、横浜FCだった。

「そのときは、1年間試合に出ていなかったので、正直、不安の部分が大きかったんです。だけど、もう1年サッカーを続けられる喜びも、やっぱりありました。あとは、見返したいという気持ちもあって、それがその後の自分の原動力になりましたね」

迎えた2012年、J2開幕戦。
堀之内はベンチ入りし、第3節にはデビュー。以降数カ月はベンチから試合を見守る時間の方が長かったものの、7月に入るとレギュラーの座を獲得。最終的には計22試合に出場・2ゴールを記録。チームはリーグ戦を4位で終え、J1昇格プレーオフへと駒を進めた。
しかし、5位のジェフ千葉をホームに迎え、自身のJ1復帰を賭けてフル出場した一戦には、0-4と大敗。
その後の11月下旬には、クラブから契約満了を言い渡されることとなる。
これを受け、堀之内は自身のブログにチームへの感謝を込め、こう記している。

『今年の一月、移籍先が見つからず引退も覚悟していた自分を最後に救ってくれたのが横浜FCでした。
そして、去年ピッチに立つ事ができず、サッカー選手としての自信、プライドを失いかけていた僕を、もう一度サッカー選手にしてくれました。』

『もう一度サッカー選手に』なった。
彼のその認識は、うぬぼれなどではない。
それを証明する事実こそが、年内に受けたモンテディオ山形からのオファーだった。

山形で与えられた背番号は『5』。
大学時代に着けていた愛着のある番号であり、プロになってからは初となる一桁の数字でもあった。

移籍当初はインフルエンザやケガの影響で出遅れたものの、4月17日の第9節にCBとして途中出場し、デビュー。
つづく第10節では移籍後初先発を果たす。
ただし、ポジションはCBではなくボランチ。出場停止の選手の穴を埋める形だった。
ホーム・NDソフトスタジアム山形でのその試合は、季節外れの大雪を必死の除雪作業でピッチの外に押し出した末、なんとかスタート。雪の舞い落ちる中、オレンジ色のボールを使用してのこのゲームで、3連敗中だった山形は勝利を収める。
スコアは1-0。
決勝点を挙げたのは堀之内だった。
前半の43分、ペナルティエリア内へのロングボールを相手守備陣が頭で跳ね返したところを、堀之内はペナルティアーク右脇で胸トラップ。直後に飛び込んできた相手を左足の切り返しでかわすと、『返す刀』で右足を伸ばしてボールを叩いた。シュートまでの一連のアクションは、後にチームメイトたちから「ロボットみたいだった」と評されることになる。
ある意味では堀之内らしい、動きの『硬さ』を伴って放たれたシュートはゴール左上へと向かい、サイドネットを揺らした。

ホームでの初出場、移籍後初先発・初ゴール・初のフル出場という『初物づくし』でこの試合は終わった。
次節では、出場停止となっていたボランチが戦線に復帰したが、堀之内はCBとしてフル出場。
以降、彼はレギュラーの座を手にし、ケガなどのコンディション不良を除き、先発出場を続けることとなる。

(第2回はこちら)

※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月10日配信)から一部を転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『森脇良太 自虐からの前身というスタイル』

●あなたの『?』に答えます 『岡本拓也と小島秀仁 同期の行方について』
        
などです。
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小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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