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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 千島徹

               vol.1千島徹(第4回)

               (第3回はこちら)


引退発表から約2週間後の2009年11月29日、愛媛FCはホーム最終戦を迎える。
バルバリッチ監督からは、前節終了後の早い段階でこう告げられていた。
「次がホームでの最後の試合だから、お前をメンバーに入れようと思っているんだが」
それが、バルバリッチの考える、ファン・サポーターへの監督としての義務だった。
しかし、千島の考える監督の義務は違っていた。

「僕のことはいいので、いつも通り、コンディションの良い選手を、監督が勝つために必要だと思う18人を選んでください」

そう伝えて、感謝の気持ちを抱きながら、監督の恩情を固辞した。

結局、ホーム最終戦で千島がベンチ入りすることはなかった。
サガン鳥栖とのゲームは0-0のまま終了。
まもなく、愛媛FCの全選手がピッチに整列する。膝下丈のベンチコートを羽織ったチームメイトたちが並ぶその前に、千島が立った。
黒のスーツにチームカラーであるオレンジ色のネクタイを締めた彼が、花束を手にスタンドマイクに向けて話しはじめる。

「この度は、自分なんかのために、このような貴重な時間を作っていただき、本当に感謝しております」
4400人あまりの観衆の拍手が、さざ波のように広がり、スタジアムを満たしていく。
「大変恐縮なんですが、せっかく作っていただいた貴重な時間ですので、このホーム・ニンジニアスタジアムで、みなさんと共有できる、これが最後の時間になりますので、いろんなことを噛みしめながら、大切に挨拶させてもらいたいと思います」

話すべきことの大筋だけは前夜のうちに決めてあった。その筋に沿って、その場で心の中に浮かんできた言葉を句切りながら、重ねていく。

「選手としては、大きなケガもあって、この約3年半のすべての時間が充実した時間とは、正直言えませんでしたが、いつでもチームメイトやサポーターのみなさんに励まされ、支えられ、温かく見守りつづけていただきました。
おかげで、今日この時期まで、プレーすることができました。そして何より、サッカーの好きな、サッカーの大好きな人間が集まるこの空間の、そのど真ん中にあるピッチの上でプレーできていたことは、本当に大切な時間でした」

話しながら、愛媛での様々なシーンが脳裏によみがえり、涙がこぼれそうになる。
《ヤバイ、泣いちゃダメだ》と言い聞かせ、所々で詰まりながらも、何とかスピーチを続けた。

「あと数日経ってしまえば、自然とプロサッカー選手でも、愛媛FCの選手でもいられなくなってしまいます。引退をして、来年には、地元埼玉に戻ることになりますが、愛媛FCのことは絶対に忘れません!」

スピーチを終えて列に戻った千島は、間もなくチームメイトたちに取り囲まれた。
ほとんどの選手はベンチコートを羽織ったままだったが、彼らのうち何人かはコートを脱ぎ捨て、中に着込んでいたTシャツをアピールする。紺色のTシャツの背には千島の番号である『7』が白くプリントされ、その上にチームメイトたちの名前がオレンジ色で載せられている。彼のセカンドキャリアでの夢を知るスタッフの提案により実現した、千島自身の手によってデザインされた引退記念Tシャツだ。
ケガばかりで、愛媛FCのためにどれだけの貢献ができたのかは疑問だった。にもかかわらず、チームは考えうる最大限の厚意をもって自分を送り出そうとしてくれている。そのことが本当にありがたかった。

チームメイトに揉みくちゃにされた後、千島の身体は数回、高々と宙を舞った。
やがてサポーターへの挨拶のため、場内一周がはじまる。
スタンドに沿ってスタジアムを回る間、同僚たちは入れ替わり立ち替わり千島のもとへとやってきては、ひと言ずつ声をかけてくれた。
特別なものではない。
「お疲れさま」という、ありふれたものだ。
だが、みんなが自分に声を掛けに来てくれる、その行為が千島にはひどく嬉しく、再び涙が落ちそうになった。

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2010年1月――。
埼玉の実家に戻ってきた千島は、まずはアパレル業界の情報を集めることからはじめた。ショップやブランドに務める知人たちに時間を割いてもらっては、話を聞いて回る。
そのひとつが『WACKO MARIA』。
元・横浜フリューゲルスのGK森敦彦と東京ヴェルディに所属していた石塚啓次が立ち上げたブランドだ。

話を聞くほどに、簡単ではないという印象ばかりが募った。
服飾の専門学校に通ったわけでもない、『元Jリーガー』という肩書きしか持たない千島に居場所を簡単に与えてくれるほどの余裕は、日本のアパレル業界にはすでになかった。未曾有の不況がこの業界に与えたダメージは、ことのほか大きいものだったのだ。
《まずはどこかのブランドやショップで経験を積み、ノウハウを学びつつ人脈を作りたい》
引退前はそんな青写真を描いていたが、現実はそうそう上手くはいかないことを痛感させられた。

貯金を切り崩す生活が数カ月続く。
実地での勉強を兼ね、かつて足繁く通っていた地元・川越のセレクトショップでスタッフとして働かせてもらうことにした。
とはいえ、扱いは正社員ではなくアルバイト。
週1回、時給850円で12時から20時までの立ち仕事だった。

そんな千島に手を差し伸べてくれたのは、サッカー界の人たちだ。
彼が人生で最初に入ったチームである少年団『川越ひまわりFC』の監督、浦和レッズハートフルクラブのスタッフ、かつてのチームメイトたち。
彼らが、それぞれのクラブ、スクールでの有料のコーチ業務を申し出てくれたのだ。
特に、川越ひまわりFCでのコーチ業は、立ち上げて間もないジュニアユースチームでの指導も含め週3回・数時間という内容を考えると、かなりの好待遇だった。
「そんなに貰えませんよ」
当初、千島はそう固持している。
しかし監督から「お前がプロになってくれたおかげで、ウチの少年団の名前は全国区になった。その御礼だと思ってくれ」と言われ、ありがたく申し出を受けることにした。
おかげで、生活は安定したものになった。

引退後しばらくの間は空欄が目立っていた1週間のスケジュールは、引退から5ヶ月ほど経った2010年5月の頃には埋まっていた。

月曜日:友人が運営するサッカースクールの手伝い
火曜日:駒場サブグランにて、レッズハートフルクラブのアシスタントコーチ
水曜日:セレクトショップでのアルバイト
木曜日:オフ
金・土・日曜日:川越ひまわりFCのコーチ

サッカーに拠ることで、千島の生計は成り立っていた。
しかし、彼の意識は、親友とブランドを立ち上げるという夢に向いていた。
足元にはサッカーがあり、視線の先には夢があった ― 。
その後、千島は両者の狭間で悩むことになる。

(第5回へつづく)


※ 写真は愛媛FC様のご厚意により転載させていただいています。

※ この原稿はメールマガジン第4号からの再掲載となります。
その他のコンテンツは

●大原ノートから『先輩から後輩へ』西澤代志也・岡本拓也

記憶に残るあの一言 福田正博

などです。


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『走るファンタジスタ、走る』 柏木陽介

前半7分の、柏木陽介の先制弾。
あの場面で思い起こしたことが三つあった。

ひとつ目は、前日の練習後に柏木の口から漏れたつぶやき。

「今は安定して良いプレー、普通以上のプレーはできてると思う」
そう言ってコンディションの良さに触れた後、「あとは・・・、点取りたいね」と口にしていた。
もう一段階、調子を上げるための足がかりとして、彼はゴールを欲していた。


思い起こしたことのふたつ目は、7月17日の横浜F・マリノス戦での一場面。
2-2で迎えた後半の26分、カウンターから柏木→興梠→マルシオとつないで、ペナルティエリア内右、柏木の目の前にボールがこぼれる。
エコパスタジアムでの先制ゴールの場面とほぼ同じ位置から、柏木は左足でシュートを放った。
しかし、ボールは前に出て来たGKの正面に飛び、弾かれてしまう。

その絶好機に決めきれなかったことを、彼はしばらくの間悔やんでいた。

「コースがなくて難しかったとは思うけど、あそこで冷静に打てるような能力とか、当たり損なっても入る運があれば・・・」

そう言って、こう続けた。
「そういう運を引き寄せるためには、日頃からしっかりやって、自信を付けて、楽しくやるってのが一 番なのかなって思う」
清水戦でのゴールは、その前提として素晴らしい技術があったことはもちろんだが、多少なりとも幸運に助けられたようにも見えた。バウンドの仕方が少しでも違うものであったなら、GKに当たっていた可能性がある。何より、横浜FM戦では利き足でのシュートが弾かれているのに、清水戦では決して得意とは言えないはずの右足で決めているのだ。
やはり、幸運はあったと思う。
そして、その幸運を引き寄せたのは他ならぬ柏木陽介自身のはずだ、とも。


想起したことの三つ目。
こちらも、前日に彼が語っていた言葉だ。
前節の大分戦での彼のプレーとその意識について、確認させてもらったことがキッカケだった。
筆者には、大分に0-3とされてからチームを牽引した要素のひとつが、いつにもまして攻守に献身的な彼の『走り』にあったように思えた。
だから、確認の意味を込めて「走ることでチームを引っ張ろうという意識もあったのか?」と尋ねてみた。

「そこはそんなに意識してないけど」と柏木。

「でも、走ることは自分の中でやらなアカンことのひとつであるし、今まで『上手い選手』とか言われてきたけど、オレは自分では『めっちゃ上手い選手』だとは思ってなくて、走る中から良いプレーができるというのが自分の長所やと思ってる。だから、それを続けないといけないってことは、ずっと思ってる」

清水戦での先制弾は、鈴木啓太から宇賀神友弥への大きな展開を機に、宇賀神→興梠→宇賀神→柏木という流れだった。
啓太から宇賀神へ長いボールが打ち込まれたとき、柏木が居たのはハーフウェイラインから自陣へ数歩入った位置。
そこからの長い疾走があったからこそ、生まれたゴールだった。

そして、そのゴール以前も以降も、柏木は走り続けていた。
彼はやはり 『走る』ファンタジスタ なのだ、との思いを新たにさせられた一戦だった。

柏木陽介という青年は自己評価が厳しい。それゆえ、悩むことも多い。
その彼が上昇気流を掴みつつある。

本人にとってはもちろん、チームにとっても吉報以外の何ものでもない。




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『父と子』  ミシャ監督と原口元気

23日、清水エスパルス戦前日に行なわれたミシャ監督の会見。
質疑応答が終わり「これでお開き」という雰囲気になったところで、ミシャ監督の方から別の話題が持ち出された。

内容は、メディアでの原口元気の扱いについて。
ミシャ監督の発言の主旨は、

・大分戦で交代した後の原口がチームを鼓舞する発言をしたことがなぜ記事になるのか? 同じように啓太を途中で代えたが、啓太の反応がどうだったかということは書かれない。なぜ元気が対象になるのか?

・彼がふて腐れて歯向かうような態度を取ることを、みなさんは期待されていたのではないか?

・少し偏見をもって元気を見過ぎなのではないか?

というもの。

筆者は各紙の当該記事すべてには目を通していないが、それらの記事の言わんとするところは「原口も大人になってきている」という前向きなものだったのではと個人的には思う。

もっとも、そういった細かい解釈の食い違いは別として、監督が日本のスポーツメディアにおける『スターシステム』に憤りを抱いていることは感じ取れた。

「私にとっては、元気も慎也も啓太も慎三も陽介も、すべての選手が同じです」

と、監督は語気を強める。
監督として、選手を守るのだという気概が伝わってきた。
そしてその守り方も、過保護にするのではなく、「悪いところは悪いと言う」スタンスであることも監督は明言した。
たとえば、先日の東アジア選手権決勝戦について。
ミシャ監督は原口のパフォーマンスを「非常に良くなかったと思う」と評した。そして、あの試合の決勝点が原口のドリブルシュートから生まれたことに言及し、あのワンプレーだけで良かったと評価されるようでは、本人のためにならないとキツい口調で語った。

「私は選手にとって父親のような存在でありたいと思っています。
 父親であれば、子どもに対して悪いものは悪いとハッキリ言う。私も選手に対して、ダメなものはダメと言う」

これまでにも、柏木陽介のようにミシャ監督を父親のごとく慕っているという選手たちの言葉は聞いたことがあった。
だから、もう一方の当事者である監督自身もやはりそう思っているのだなと、妙に腑に落ちた気分にさせられた。

しかし、その後に続いた言葉には、一瞬、自分の聞き間違いかと耳を疑った。

「原口選手に関しては、私自身愛情を持ってるし、彼をサポートしたいなと思ってる。彼が今後もっと成長した姿を見せられなければ、それは私の指導者としてのひとつの負けとなる」

ミシャ監督はそう断言した。
念のため、ICレコーダーで録音した音声を聞き直したが、たしかに「指導者としてのひとつの負け」と言っている。

監督、指導者という人たちはみな、口にせずともそういった覚悟をもって選手と接しているのかもしれない。
だが、その覚悟を明確な言葉にされると、やはり心震えるものがあった。


『スターシステム』と原口に関する話に費やされた時間は約12分。
これは、そこに至るまでの、監督からのコメントと質疑応答に掛かったのと同じ時間だ。かつ、大きな身振り手振りを交えた語り口の熱量は、それに倍するものがあった。

ひとしきり熱弁をふるったミシャ監督は、次のようにこの話題を締めくくっている。

「今、私が非常に緊張感と強い気持ちをもってここで会見してるのと同じように選手が明日ピッチでやってくれれば、我々は勝つんじゃないですかね」

そうジョークを飛ばし、その場の雰囲気を再び和やかなものへ変えることをミシャ監督は忘れていなかった。
そして退室の際には、いつもの「アリガト」に加え、「ソーリー」という言葉も添えていた。
質疑応答での、失点に関する言及の内には論理展開に多少の強引さを感じるところもあったのだが、このあたりの気遣いはやはり「上手いな」と思った。

『スターシステム』については、かつて指揮を執ったフォルカー・フィンケ氏も頻繁に警鐘を鳴らしており、それが氏とメディアとの間に確執を生む一因になったと、個人的には認識している。

その過去をミシャ監督が把握した上での振る舞いなのかは定かではない。
だが、今日の一事をもってメディアとの間に確執が生じてしまう、という事態にはならないことは断言できる。


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マルシオ・リシャルデスと『早すぎる後日談』

ロッカールームを出て後半開始直前のピッチに足を踏み入れた際、彼の耳にはサポーターの声援がしっかりと届いていたという。

「Ole! Ole! Viva Marcio!」

サポーターの歌声が響いてから、数分後 ――。
ボールの右に柏木陽介が、左にマルシオ・リシャルデスが立った。

「ボクの方からヨースケに『蹴らせてくれ』と言いまいした。ヨースケも冷静に判断して(譲って)くれました。ボクらは常にピッチ内でそういう話をしますし、互いの得意な形も知っていますから、正しい判断をできる仲だと思っています」
マルシオは、あの場面をそう振り返る。

「イメージ通りでした。速いボールを蹴ろうと意識して、蹴った瞬間の感触は良かったです。きちんとミートできました」

では、蹴った瞬間にゴールを確信できたのか ―。
彼は首を振る。
「ゴールまで距離があったので、入るまで不安はありました」

彼が蹴ったボールは、見事に大分ゴールの右下を射貫いた。
3-1ではじまった後半開始早々の得点。
このゴールがなければ、逆転まで届かなかった可能性は否定できない。
たとえば、槙野智章はこう語る。
「後半の早い時間に2点目を取れれば行けると思ってました。マルシオがああやって決めてくれたことがチームを乗せてくれたと思います」
槙野は続けて、「あのFKのとき、自分の判断でGKの集中を妨げようとしていたことが、自分的には評価できるポイントだと思います」と付け加え、取り囲む報道陣を笑わせていた。
(筆者注:この発言の前に、彼は長い時間を掛けて前半の3失点について反省の弁を述べている)。
もっとも、マルシオ自身は「あのとき自分はとても集中していたので、(槙野が)何かやっているのはわかったけど、それが何なのかは明確にはわからなかった(笑)」と語ってもいる。



「Ole! Ole! Viva Marcio!」

その歌声を、マルシオは『ガソリン』と評した。
「サポーターの声援は、ボクたち選手が常に走り回るためのガソリンです。本当に感謝しています」、と。

この一発で、彼のチーム内での序列が変わるかはわからない。
だが、これからも、彼の姿勢は変わらない。それだけは、はっきりしている。
「先発で出ても出なくても、自分のできることを全力を尽くしてやりたいです」
この日も、そう口にしていた。


(了)


以下は、個人的な『早すぎる後日談』。

この大分戦でのMDPでは、偶然にもマルシオ・リシャルデスについて書かせてもらっていた。
MDPで取り上げた選手がその試合で活躍してくれるのは、当然、非常に嬉しい。そして僭越ながら、自分自身が運を「持っている」ような気にすらなってしまう。
試合後、通訳のロドリゴにそう言うと、彼はポルトガル語で「今日はMDPとしても『ビンゴ!』だった」とマルシオに伝えてくれた。

「じゃあ、これからも毎回ボクのことを書いてください!そしたら、毎回決めるから」

と、マルシオ。
もちろん冗談だ。

マルシオはあまりジョークは口にしないタイプ。
本当に気を許せる人たちの前では違うのかもしれないが、メディアの前で彼がこれまでに口にした冗談は数えるほどで、ポンテやエジミウソンのそれより遙かに少ないことはたしかだ。
余程、嬉しかったんだなと思い、こちらも幸せな気持ちにさせられた。


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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く

             vol.1 千島徹(第3回)

                 (第2回はこちら)


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プロサッカーは、今季限り――。
そう心に決め、2009年1月15日、チームの始動を迎える。2月になると、愛媛から鹿児島へと移動し、約2週間のキャンプに入った。

この時期のキャンプは体力づくりがメインとなり、いわゆる『素走り』が毎日のように課される。
千島は素走りが嫌いだった。
だが、このときばかりは違っていた。

《この素走りの苦しみも、もう今年限り。来年になったら、味わいたくても味わえないんだ・・・》

そう思うと、いつまでも走っていけそうな気になった。

プレッシャーから解放されてもいた。
来季の契約を勝ちとれるか否かという怯えから自由になり、その結果、少しずつだが思うようなプレーができる場面が増えていったのだ。

3月7日にJ2は開幕。
千島がシーズン初のベンチ入りを果たすのは5月2日、ホームでのヴァンフォーレ甲府戦。
その試合で、レッズユースの後輩にあたる大山俊輔と交代でピッチへと入った。
チームは、千島の投入後に1点を加え、2-0で勝利する。
必要以上に気負うこともなく、純粋にサッカーを楽しむことができた。出場時間は後半30分からの15分あまりだったが、もっと長い時間、サッカーを楽しんでいたように千島には感じられた。

その後10月末日まで35試合が行なわれ、千島は半分近いゲームに絡み、得点も記録した。
そして11月 ―。
どのクラブもが来季を見据え、現有戦力の整理に着手(つまり、今季限りの契約満了選手を決定)する時期を迎える。
千島は、チームにあれこれと気を遣わせてしまうのは申し訳ないと考え、先に自分から引退の意思を伝えることにした。
イヴィッツァ・バルバリッチ監督に練習後、時間を取ってもらう。
来季、バルバリッチが続投するか否かは知らなかったが、《まずは監督に、最初に言うべきだよな》と考えたからだ。

「引退するのはやめろ!」

それが、通訳をはさんで千島の思いを聞いたバルバリッチの第一声だった。

「いや、これはシーズンのはじめから決めていたことで、この1、2ヶ月で決めたことではないんです」

千島の言葉に、監督はしばらく押し黙る。
納得してくれたかなと思った矢先、こう切り出された。

「では、1週間だけでいいから、私に時間をくれないか。引退は一度白紙に戻して、1週間、私の練習に付いてきてくれ」

そう言われたところで、引退を撤回する気持ちはさらさらない。
しかし、《監督にここまで言わせたのだから・・・》と、その場は彼の顔を立て、「わかりました。1週間、やってみます」と応えて、監督の元を辞した。

監督の熱意は嬉しい。
だが、困惑の方がより強かった。
シーズン前に引退を決め、折りに触れてその気持ちを確認してきたが、今日まで変わってはいない。
それどころか、早く発表してスッキリしたいとの思いが、千島の中では日に日に強まっていった。

バルバリッチとの約束は1週間だったが、5日目にして千島は再び監督の元を訪れる。

「すみません、やっぱり心変わりしそうにないので、クラブから引退することを発表してもらいたいんですけど・・・」

おずおずと切り出した千島に、熱血漢である監督は「じゃあ、あと3日だけくれ!」と退かず、千島は苦笑しながら「・・・わかりました」と応じて、彼の元から歩み去るしかなかった。

さらに3日後 ―。
練習が終わり、千島は監督の元へと出向いた。監督も彼の姿を視認。ふたりは互いに複雑な笑みを浮かべ合った。
バルバリッチは少しだけ間を置き、切り出した。

「・・・実は、これはまだ発表されていないのだが、来年も私はエヒメの指揮を執ることになった。トールのことは、来季も必要な戦力として考えている。それでも、ダメか?」

千島の胸に衝撃が走る。
これまで監督が自分を慰留してくれていたのは、単に『まだプレーできるだろ?』と考えてのことだと、千島は思っていた。
しかし、監督は自分が予想していた以上に『千島徹』というサッカー選手を評価してくれていたのだ。
素直に嬉しかった。だが、その喜びだけで千島の中で気持ちが変わることははなかった。

「・・・すみません・・・」

千島のつぶやきに、監督が大きなため息をつく。次いで、「わかった」との言葉と共に大きな右手が差し出される。
応じると、力強く握りかえされた。

愛媛FCのホームページ上で千島徹の引退が発表されたのは、2009年11月16日だった。

                     *

愛媛FCのHP上で引退が公表される数日前から、千島はかつてのチームメイトやお世話になった人々へ立て続けに電話をかけ、メールを打った。

「ご無沙汰しています。実は、ご報告があります―」

自分の引退を彼らがどこかから耳にする前に、自身の口から、手から伝えたかったのだ。

それから数日の間、埼玉にある浦和レッズのクラブハウスでは、『徹の引退』がちょっとしたニュースになっていた。

「引退するって最初に聞いたときの率直な感想は、『もうちょっとできるんじゃないのか?』ということ」

記者に千島の引退について問われ、レッズでの寮生活時代、隣の部屋(正確には隣の隣で、間は空き部屋だった)に住んでいた『同期』はそう口にした。
鈴木啓太は続ける。
「でも、きっと徹本人の感覚は違うんだろうなと思う。徹もケガに見舞われたりして、自分の中で思うところは色々あったんだろうなと思う
し・・・でもやっぱり、若干の寂しさはあるなあ」

鈴木啓太と千島徹。
彼らにとって、レッズに同期加入した選手のうちで、年齢も同じなのはお互いだけだった。だから離れていても、常に心のどこかで気にしてしまう存在だった。
タイミングとしては、そんな彼らがプロサッカーの世界に入って10度目のシーズンがまもなく終わろうとしているときだった。

「僕自身は加入したときに、サッカー選手として10年できれば、ということを考えてました。そういう意味では、今シーズンは節目の年だと思ってた。同期としては、『そうか、アイツは
区切りをつけたんだな』という感じですね」

同期の決断に、啓太は寂しさを感じていた。
同時に、その決断に至る過程を尊重する気持ちも強かった。

一方で、こと千島徹という仲間に関していえば、彼が踏み出すであろう『セカンドステージ』への期待も大きかった。

「寂しさもあるけど、でも、次のステージに入る決断をしたんだなという感慨の方が大きいですね。彼の人間性であったり、持っているものを考えると、凄く楽しみに思えてしょうがな
い。辞めるヤツに言うことじゃないかもしれないけど、アイツの場合は、これからが凄く楽しみです」

(第4回はこちら)

この原稿はメールマガジン第3号からの再掲載となります。
その他のコンテンツは

●大原ノートから 『 矢島慎也が背負うものは 』


●〈隔号連載〉『WARRIORS IN RED ― リライト』& こぼれ話

        『 宇賀神友弥 プロへの道程 』

●〈不定期連載 〉 『世代交代 ― 79年組と調子乗り世代』番外編

          『 坪井慶介の意外な(?)一面 』

などです。

今月中にご登録いただければ、8月発行分は無料でご覧いただけます。

気になる方は、下記リンクからどうぞ。


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ミシャ監督に関する小論

15日の大原サッカー場での練習は1時間ほどで終了した。
ウォーミングアップ後、いつもならゲームへと移るところがセットプレーの練習に取り組んでフィニッシュ。これまでもゲーム中にCKを採り入れたり練習の最後にセットプレーの確認をしたりということはあったが、メインメニューがセットプレーのみというのは非常に珍しい。森脇良太によれば「広島時代含めても、ちょっと記憶にない」とのことだった。

レッズの練習スケジュールは、土曜日の公式戦を基準に、次のようなパターンが多い。

土曜日:公式戦
日曜日:リカバリー、練習またはトレーニングマッチ
月曜日:オフ
火曜日:午前・午後の2部練習
水曜日:練習
木曜日:ミーティング後、練習
金曜日:練習後、移動
土曜日:公式戦

つまり、火曜日に次の試合に向けた準備がスタートし、4日間のトレーニングで本番に臨むというサイクルだ。
火曜日の午前中は野崎信行アスレティックトレーナーが指揮して行なわれる、フィジカル中心のいわゆる『ザキトレ』。午後はシュート練習や戦術的な練習に取り組むが、これらのメニューも長い距離を走るもの(たとえば、シュート練習のスタートはセンターサークルから)が多く、フィジカル強化の要素が強い。

そして、この2部練習の午後の部は、突然キャンセルされることも度々だ。
判断を下すのはもちろんミシャ監督だ。
午前練習での選手たちの様子を見て「午後はオフ」とされることもあるが、午前練習開始前の時点ですでに「午後を休みにする」と決めているときもある。しかも、その決定を選手に伝えるのは大抵の場合、午前の練習が終わってからだ。

狙いは何なのか?

人間の一般的な心理からすると、最初から午後がオフと知っているよりも、急遽オフになった方が得した気分になるものだ。そのあたりを狙っているのか?
あるいは、オフ明け初日に2部練習を予定しておくことで、選手が翌日にも疲れが残る程オフにはしゃぐのを牽制する要素もあるのかもしれない。

いずれにしろ、ミシャ監督はそういった手練手管を駆使して、選手を上手く『操縦』しているように思う。

そこで気になるのが、今日15日のトレーニングだ。
上記の通り、セットプレーの確認だけで終わっている。
正確には、先発組と目されるチームのCKでの攻撃(右・左)→CKに対する守備(右・左)→FKに対する守備(左・右)→FKからの攻撃(右・左)の順。左右どちらも4、5本ずつ蹴られていた。

次節・大分戦でセットプレーを重視してるからなのか?
もちろんその要素はゼロではないだろう。
だが、だとすれば、綺麗な形でゴールが決まっていなかったにもかかわらず、メニュー終了となった点が腑に落ちない。

ミシャ監督が、酷暑の下での試合と練習を重ねてきた選手たちに疲労の色を見て取り、軽めのメニューにした可能性もある。
しかし、全体の3分の2近い選手は全体練習後もグラウンドに残り、シュート練習やサッカーゴルフを行なっていた。

実はミシャ監督のいちばんの狙いは、選手たちの気分転換にあったのではないか。
首位広島に快勝した直後の、前節の痛い敗戦。
そこから気持ちも身体もリフレッシュさせるための、軽めのメニュー設定という『サプライズ』だったのではないか――。

森脇良太によると、この日のトレーニングについて監督は、「こういう日があってもいいんじゃないか」と選手たちに向かって言っていたそうだ。
次節の対戦相手がリーグ最下位に沈んでいるがゆえの油断、などではないだろう。『窮鼠猫を噛む』の格言は身に染みているはず。

手綱を引き絞るより緩める方が、指揮官としては勇気がいることだと想像する。
それができるのも、自分たちが積み上げてきたものへの自信と手応え、選手たちへの信頼があるからこそ、なのではないだろうか。

(了)

追記:本来であれば、ミシャ監督に直接疑問をぶつけてみたいところなのですが、ミシャ監督の取材対応は試合前日と当日の記者会見以外は原則ナシという形のため、半ば妄想のような『推論』を記してみました。
リーグ戦が終わったら、今日のような疑問を含め、直近の試合とはあまり関係ない事項でも気軽に聞ける機会があればなあと思っております。まあ、その際にたずねても上手くはぐらかされる可能性もありますが(苦笑)。


追記2:ミシャ監督に限らず、ヨーロッパの監督はあまりセットプレーの練習を行なわない傾向にあり、一方で、日本人監督はセットプレーに手間暇掛けるのを惜しまない指導者が多いような気がします。統計を取ったわけではないので、あくまで印象ですが。(南米の監督については、印象を語れるほどの数を見ていないので、ここでは除外します)。

「誰がニアに飛びこんで、誰がファーに流れて」みたいなことを細かく設定するのは、日本人の気質に合っているところもあるのかもしれません。
そして自分も含め、セットプレーの練習と聞くと何か特別なことのように感じて、「おっ、次の試合はやる気だな」というような印象を抱きがちな気もします。
『セットプレー = 飛び道具・秘密兵器』のようなイメージが頭のどこかにこびりついているのかも。

けれど、よくよく考えてみると、「誰がニアに~」といった約束事をいかに事細かく設定したところで、可能な決定力アップの限界は割と近いところにあるような・・・。
たとえば去年と今年のレッズのセットプレーの違いは何か? 柏木選手が「今年は良いボール蹴れてる」という要素もありますが、興梠選手と、何と言っても那須選手の存在が大きいわけで。それ以外の条件では去年と大差がないことを考えると、セットプレーの得点増減はボールの質と受け手の高さ・強さに左右される割合が非常に大きいとも言えます(今さらですが)。逆に、練習による伸びしろというのは意外に小さいのかもしれません。
もちろん、セットプレーの練習をすることで、キッカーと受け手たちが擦り合わせをする材料ができる、という効果は依然として残るとは思いますが・・・。



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岡本拓也 『レンタル』に賭けるもの

13日午後、岡本拓也のV・ファーレン長崎への期限付き移籍が発表された。

この2日ほどの日本サッカー界では、大宮アルディージャのベルデニック監督の解任や明日の日本代表対ウルグアイ戦の事前情報など、注目を集めるニュースが目白押しだった。

だが、筆者にとっては、今回の岡本の移籍の方がよほど重要なニュースだった。
誤解を怖れずに言えば、待ち焦がれていた一報でもあった。


MDP425号(4月14日湘南戦)の『WARRIORS IN RED』でも触れたのだが、3月下旬の時点で、岡本はこう語っていた。

「ここ(浦和)で試合に出るのが、やっぱり一番ですけど・・・・・・、それが難しかったら、考えるしかないんですよね・・・・・・」

その頃の彼は、ピッチの片方のエンドでゲーム練習がはじまると反対のエンドへと移動し、天野賢一コーチの指揮下で永田拓也・野崎雅也らと基礎的なボールコントロールやシュート練習を行なうのが常だった。

4月以降には、永田充の負傷や平川忠亮の一時的な離脱によって、ゲームに参加することも増えた。
しかし、チーム内での彼の立ち位置 ― 有り体に言えば「序列」― は、残念ながら大きな変化のないまま。
岡本の胸の中で、現状を打破する手段として『レンタル』という選択への思いが大きくなっていくのは必然だった。

だから筆者としては、その選択肢が現実のものとなったことが喜ばしかった。

ただし、ファン・サポーターの方々に誤解してもらいたくないのは、決して彼は『レッズが嫌になって出て行くわけではない』ということだ。
(こんなことを書かずとも、ほとんどのファン・サポーターの方は理解していると予想するが、念のため)。

今回、期限付き移籍の決断を岡本が下した理由はただひとつ――。
他のクラブで実戦経験を積み、より成長してレッズに戻って来るためだ。
そのためだけに、生まれ故郷をひととき、彼は離れるのだ。

また、そういった岡本の思いは抜きにしても、今回の期限付き移籍は『需要と供給』の関係があったからこそ、成立したものでもある。
今夏の移籍マーケットでは、複数のクラブが彼に興味を示していたようだ。実際、筆者もあるJ2クラブのGMから「岡本ってどうなの?」と聞かれたことがあった。
それぐらい、彼の潜在能力を評価している人はいるのだ。


明日14日の朝、岡本は長崎へと発つという。

「どんな環境でも、自分次第だと思うので・・・・・・。自分の意思をしっかり持って、日々練習することが大事で、それが大事だということは、どこへ行っても変わらないと思います」


この言葉は昨2012年7月、高橋峻希のレンタル移籍に際し、岡本が語ったものだ。
もっとも、そのときの彼のこの言葉は、《どこに行っても自分次第ならば、僕はレッズで頑張りたい》という文脈の中で発せられたものである。

1年と1ヶ月がたち、事情は変わった。
だが、彼の発した言葉の持つ意味、その重さは変わらないはずだ。

自分の意思をしっかり持ち、日々の練習に励み、そして、今の何倍も大きくなって帰ってきてくれることを願っている。

V・ファーレン長崎の一員としてのデビューは、最短で今月18日、日曜日。
アウェイでのアビスパ福岡戦で実現する可能性がある。




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梅崎司と野田紘史の『プロフェッショナリズム』

オフ明け初日の大原サッカー場での午前練習は、ほとんどの場合、決まっている。

野崎信行アスレティックトレーナー主導で行なわれるフィジカル中心のトレーニングだ。
選手たちは多少の苦笑いを交えて、この練習を「ザキトレ」と呼ぶ。
フットサルコートでのチューブを使った肩胛骨周りの柔軟運動と強化にはじまり、体幹を鍛えるスタビリティトレーニング、バランスボードに座っての腹筋、ベンチを利用しての腕立てなどなど、そのラインナップはキツめなものばかりだ。

チーム全体でこの「ザキトレ」に取り組みはじめたのはゼリコ・ペトロヴィッチ監督時代から。
槙野や興梠、森脇など、移籍してきた選手の少なからずがこれらのメニューに当初苦戦していたことは、その厳しさを物語る一例と言っていい。



今日13日の練習では、このフットサルコートでの「ザキトレ」に梅崎司と野田紘史も参加。
同僚たちがピッチでのランニング系メニューに移行してからは、梅崎・野田ともそれぞれ個別の調整へと移った。
梅崎はジョギングをメインに時折ウォーキングを挟み、野田はジョギングと筋トレルームでの上半身強化メニューを交互にこなしていた。
もっとも、同じ「ジョギング」とはいえ梅崎の方が若干ペースは速く、野田にくらべると膝や踵(かかと)も高い位置まで上がっていた。彼らの負傷箇所の違いを思えば、当然ではあった。


梅崎は6日夕方、右眼窩底骨折の手術を受けている。
今日でちょうど1週間が経過。腫れは退いてはいたものの、右眼のすぐ下には手術痕らしき短い筋状のかさぶたがあった。
視力そのものへの問題はないそうなのだが、「まだ違和感はあります」と言う。
この違和感が消えるまでは別メニューでの調整が続くと思われる。

「(別メニューになりますけど)やれることは結構あるので、時間を有効に使いたいです」

と前向きな姿勢を見せていた。


左膝の靱帯を損傷した野田も、「(先週まではウォーキングだったのが)、ゆっくりだけど走れるようになりました!」と笑顔を見せた。
「ケガした瞬間は長くなるかなと思った」野田だったが、不幸中の幸いで、損傷の度合いは予想より軽度なもので済んでいた。


周知の通り、彼らの負傷はどちらも空中戦で相手と接触して負ったものだ。
ケガの原因となったプレーについて、ふたりはそれぞれに言及している。
そしてその言葉はどちらも、『プロサッカー』というものの一側面を端的に言い表すものだった。


梅崎:「サッカーは闘いなんだ、というところを見せられたと思います」

野田:「あの場面で競りに行かなければ、見ている人に気持ちも何も伝わりませんから」


選手ならば誰もが、ケガは避けたいと願う。
だが、あのときの梅崎は、あの場面での野田は、怖れることなくボールに向かっていった。

だからこそ、今回の負傷については、ふたりともある種の『納得』ができる部分があり、切り替えて次のステップを踏めてもいる。
仮に、ふたりのケガが怖じ気づいた末に負ったものであったならば、その落胆ははるかに大きくなっていたにちがいない。

梅崎も野田も、8月中の合流・復帰を見据えている。






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vs順天堂大学トレーニングマッチ 阪野豊史

11日、大原サッカー場でのレッズ対順天堂大学との練習試合を見てきました。
以下、感じたことを敬称略で記させてもらいます。



この日のレッズは、相手の前からの勢いあるプレスに思うようにビルドアップできず苦戦し、先制を許す。
その後、山田直輝のゴールで同点とした。

アシストは阪野豊史。
ペナルティエリア内左深くまで持ち込んでからターン、後方の直輝に丁寧に戻してのお膳立てだった。

前半終了間際にはマルシオ・リシャルデスが野崎雅也のスルーパスに抜け出してPKを獲得、自身の右足で決めて逆転。後半はユース所属の関根が1点を加え、トータル3-1で勝利した。

阪野には後半だけで、3度のゴールチャンスがあった。
しかし、シュートはGKやDFに弾かれ、決めきることはできなかった。

あと一歩のところまで行きながら、ネットを揺らすことができない。
前々節の広島戦、後半27分に原口元気のリターンを受けて放ったシュートもそうだった。その翌日の広島とのトレーニングマッチでも、岡本拓也の左(!)クロスに飛びこみながら、GKにセーブされてしまう場面があった。

あと一歩 ――。

それを埋めるために、「もっと最後のところの精度を上げていかないといけないです」と阪野は語る。

精度を上げるために必要なものはふたつ。
ひとつは反復練習。
もうひとつが、自信だ。

妙な言い方になってしまうが、「あと一歩」の場面が続くのは、「あと一歩の場面が続いているから」でもある。
そのうちのどれかがネットを揺らしていれば、そのゴールが自信となり、次のシュートチャンスでの対応にも変化が出てくるものだ。逆に言えば、1試合で複数得点を挙げる『固め打ち』も、こういった心理的な影響と無縁ではないだろう。

「入らないと、それを気にしちゃうわけではないですけど、やっぱり思いきりのよさが少し欠けてしてまう」と阪野は言う。

「いつもなら思いきり強いシュートを打つところで、コース狙ってボールスピードが遅くなって止められたり、打てばいいところで1個持ち出してみたり。そういうことがあるので」

あと一歩の距離を埋めるために、「練習するしかないと思う」と阪野は語る。
そして、「練習のときから、もっとゴールにこだわっていきたいです」とも。

もっとも、現時点で阪野はすでに相応の努力をしているとは思う。
日々のチーム練習後に、阪野が堀孝史コーチと共にシュートの個人練習に励む場面は頻繁に目にするからだ。
もちろん、本人も言っている通り、その練習でもこれまで以上に「ゴールにこだわる」姿勢は重要だ。

だがそれ以上に、今は彼に幸運が舞い降りて欲しい、と個人的には思う。

公式戦でのファーストゴール ――。
その後に阪野豊史がどう変わっていくのか、早く見てみたい。



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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く

                vol.1 千島 徹(第2回)

                  (第1回はこちら)





「今の生活は今の生活ですごく充実してるんです。でも、引退してしまったことに関しては、正直、めっちゃ後悔するときもあります」
そう語る千島が引退を決意したのは、2008シーズンが終了して間もない頃。翌09年を「最後のシーズン」と心に決めていた。

千島に引退を決意させた要因は、大別すれば2つに絞られる。
ひとつはケガ。
2007年5月下旬に負った、左膝の前十字靱帯断裂だ――。
サガン鳥栖との練習試合、千島はドリブルで相手をかわしてから右足でのシュートモーションに入った。
その瞬間、追走してきたDFに背後から押される。
軸足となっていた左脚の膝に、自分の体重とDFの体重、さらにはそのDFの運動エネルギーまでもがプラスされてのしかかる。
千島の左膝はグニャリと、本来は曲がらないはずの方向へ『く』の字に曲がった。
これまでの人生で感じたことのない激痛に襲われた。


その負傷からチーム練習に部分合流するまで、要した月日は約1年2ヶ月。
だが不運なことに、部分合流を果たしたその日、千島は再び左膝を負傷。ボール回しの際、人工芝グラウンドにスパイクのスタッドが引っかかり、半月板を損傷してしまう。
結局、さらに3ヶ月弱の時間を手術と術後治療、リハビリに費やすこととなる。
公式戦のピッチにようやく戻ることができたのは2008年10月5日。
前十字靱帯を損傷してから1年5ヶ月もの時間が過ぎていた。


復帰したとはいえ、それで苦しみから解放されるわけではない。
その後は、長期離脱を経験した選手ならば誰もが苦しむように、『かつての自分』と『今の自分』のギャップに千島も煩悶した。
頭では、ケガをする前の自分に戻るのは容易でないとわかっている。
しかし、頭と感情は別もの。
感情はどうしても『かつての自分』の影を追ってしまいがちで、そこに葛藤が生まれる。
その葛藤に、千島は疲れはじめていた。



引退を決意させた、もうひとつのもの――。
ファッション。
それは千島にとって、サッカーと同じくらいに情熱を傾けられるのではと思えるものだった。

ファッションへの興味は、中学時代から強いものがあった。
プロになってからも関心は強まるばかりで、ユニフォームは襟を立てて着こなし、オフの日には長い時間を原宿で過ごした。
《引退したらアパレル業界に入って勉強して、最終的には、中学時代からの親友と自分たちのブランドを立ち上げる》
『サッカー後の人生』として、そんな夢を長い間胸の奥で温めていた。


《ケガばかりで正直ちょっと疲れた・・・・・・。それよりも、次の夢への最初の一歩を、早く踏み出したい》

それが引退する前年、2008シーズン末の、千島徹の偽らざる心境だった。

                        *

迎えた2009年の1月、愛媛から実家のある川越へと帰省中の千島は、同郷のチームメイトと酒席(とはいっても、最初の乾杯後は2人ともソフトドリンクばかり頼んでいたのだが)を共にした。
同僚の名は関根永悟――。
関根は大宮東高校卒業後、ホンダルミノッソ狭山でプレー。DFとして泥臭く粘り強いそのパフォーマンスが認められ、JFLからJ2への昇格を目指す愛媛FCから誘われた経歴の持ち主。苦労してキャリアを積み上げてきた選手だった。

千島と関根は同じ歳ということもあり、他の選手には言いづらいことでも互いに話し合える間柄だった。

「今から話すことは、永悟だけに言うことで、みんなには黙っててほしいんだけど・・・」
そう切り出し、関根がうなずくのを確認してから、まだ家族にも伝えていない決意を明かした。
「オレ、今季限りで引退するつもりなんだ」

関根の表情から、驚いていることがわかった。
しかし、彼の口からは『なんで?』、『もう少し一緒にやろうよ』といった、引き留めの言葉は出てこない。自分の考えを他人に押しつけるようなタイプではないのだ。
しばしの間を置いてから、テーブルの向かいに座る同僚がつぶやく。

「・・・・・・そっかぁ・・・・・・」

互いに自分のグラスに目をやる。
2人の間に、沈黙だけが流れた。

         

千島が関根に、他の同僚たちには漏らさぬよう言い含めたのは、何ももったいぶっていたわけではない。
彼なりに考えた末のことだ。

仮に全チームメイト・スタッフに「今季限りで――」と知らせた場合、様々な支障が出てしまう可能性を危惧したからだ。

たとえば、メンバーの当落線上に自分ともう1人の選手がいて、自分が選ばれたら、その選手はどう思うか?
「徹クンは今年が最後だから、監督も特別扱いしてるんだ」と思わないだろうか?

あるいは、自分なりに精一杯練習に取り組んでもいまひとつのプレーしかできなかったとき、同僚たちはどう思うか?
「徹クンはどうせ今年でやめるんだから、今日手を抜いたところで何かが変わるわけではないよね」と思われはしないか?

考えすぎなのかもしれない。
だが、『今季限り』という自分の意思を表明することで、チームの和に亀裂をもたらす可能性が少しでもあるならば――。
それは避けたい。
そう思い、決めたことだった。

関根にだけは伝えておこうと思ったのは、これまでの自分たちの関係を振り返れば、そうすることが自然で正しいことに思えたから。
そして、《誰かひとりくらいには、自分の決断を知っておいてもらいたい》との思いがあったからだった。

         
(第3回はこちら)



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メルマガ第2号と小林陽介

本日、メルマガ第2号を配送しました。
内容は・・・

【1】〈連載〉 人生は上々だ  かつての『レッズ』に会いに行く
                    vol.1 千島徹(第2回)

【2】大原ノートから


【3】〈不定期連載 〉
『世代交代 ― 79年組と調子乗り世代』 プロローグ

など。

千島さんの第2回は、後日、当ブログにも掲載予定です。

なお、同世代には「もしかして・・・」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、ご想像の通り、『人生は上々だ』のタイトルはユニコーンの同名の曲から拝借しました。
原稿の企画内容的には、名曲『すばらしい日々』の方がよほど近いんですけどね。



それと昨8月7日夜のことになりますが、元浦和レッズで現在は横河武蔵野FCに所属する小林陽介選手の取材に行ってきました。
彼と会うのは約2年半ぶり。
2011年1月に『Sports Graphic Number』で細貝萌選手のドイツ移籍について書くこととなり、細貝選手がお世話になっていた松本大学の齊藤茂先生(専攻はスポーツ心理学)に取材させていただいたことがあります。その帰りに、当時、松本山雅FCでプレーしていた小林選手にも会ってきました。タイミングとしては、レッズが天皇杯で彼らに敗れてから1年3ヶ月ほど経たころで、そのときにはもう横河への移籍が決まっていました。

久しぶりに会っての最初の印象は、「ちょっと痩せた?」 ということ。
基本的な体型は、2002年にレッズユースからトップに上がった頃と大差ないスリムなものに見えたのですが、顔が少しホッソリしたように思えました。

P1280462ss.jpg


聞けば、小林選手も今年の5月で30歳の大台に突入とのこと。
《陽介君が30って・・・そりゃあ、オレも歳取るわけだわ》と、時の流れの速さにため息をつきました。

小林選手のことは、日を改めて原稿として書き起こす予定です。




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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く

                 vol.1 千島徹(第1回)


IMG_5886.jpg



埼玉県川越市、国道254号線沿いにある屋根付きのフットサルコート。
その駐車場には、千島徹の愛車である紺色のピックアップトラックがずいぶんと前から駐められていた。
かつての千島は、どちらかと言えば、時間にルーズなタイプだった。その彼が担当するサッカースクールがはじまるまで、まだ50分近い時間がある。
自宅からの所要時間の計算をミスしたわけではない。車で15分強の実家から、彼は今通っているのだ。

「今はこのスクールが本当に充実してて、もう前の晩からここに来たくて仕方ないんですよ!」

そう口にして浮かべる笑みは快活そのもの。
幼稚園児から小学校6年生までを対象としたサッカースクールは月・火・木曜の週3回。それ以外に水・金曜日のフットサルスクールでもコートに立っている。

「早く来たときは、車の中で、タブレットを使ってサッカーの動画を見てるんです。最近よく見るのはネイマールやロビーニョのプレー」

そのタブレットも、サッカーの動画鑑賞を主目的に購入したものだという。

「オレ、選手でいたときよりも今の方が、サッカー好きだと思います。サッカーをもっともっと追究したいという気持ちが強いんです。もし今の気持ちのままで現役に戻ることができたら、チーム練習が終わった後に毎日残って1時間ぐらいは練習してると思います。そしたら、もうちょっとは成功したのかもしれないっすよね」

そう言って、苦笑いしてみせた――。

彼に会いに行ったのは今年6月の半ば。
梅雨どき特有の蒸し暑さの中にあっても、千島は頭に被った黒いニットキャップを外さない。ファッションへのこだわりは健在で、えり足の左右だけが長い独特のヘアスタイルも、キャリア終盤の頃と変わりなかった。

「今の生活は今の生活ですごく充実してるんです。でも、引退してしまったことに関しては、正直、めっちゃ後悔するときもあります」

そうひと息に口にし、しばらく押し黙った。



千島がレッズユースからトップチームに昇格したのは2000年。レッズがJ2で戦うことになるシーズンだった。
同期は鈴木啓太。千島が30番を、啓太が31番を付けた。
1年目の4月にはナビスコカップに途中出場してプロデビュー。
しかし、リーグ戦のピッチを踏むまでには、それから2年5ヶ月も待たねばならなかった。
リーグデビューを飾ったアウェイでのジュビロ磐田戦では、後半途中から出場して早々、激しいフォアチェックから鈴木秀人に激突。まもなく警告を受けてもいる。

千島がリーグデビューを果たした2002シーズンから指揮を執りはじめたのはハンス・オフト。
彼は攻撃のオプションとして千島を育てようとしていた。
少なくとも千島本人は、「監督から目をかけてもらっている」との感覚を日々の練習で抱きながら、プレーしていた。

翌03年には、ベンチ入りの回数は飛躍的に増え、出場試合の数も少しずつだが重ねていく。
8月のナビスコカップ準々決勝・対FC東京戦では、終了間際に貴重な同点ゴールを記録。これは千島自身の初ゴールであると同時に、レッズユース出身選手がはじめて挙げた得点でもあった。

しかし、今も千島が「恩師」と評するオフトが去ると、チャンスは激減。
ケガも重なってベンチ入りからも遠ざかり、2006年6月には愛媛FCへと完全移籍。2009年シーズンの終了をもって、現役生活に終止符を打った。

引退を決めたのは、愛媛から契約満了を言い渡されたからではない。
むしろ逆で、当時の指揮官は、千島を翌年の貴重な戦力として考えていたほどだ。

彼はなぜ、スパイクを脱ぐ決意をしたのか――。

実際のところ、彼が引退の決断を下したのはずいぶんと早い時期だ。
前年の08シーズンが終了して間もない頃には、翌年を「最後のシーズン」と心に決めていた。

(第2回はこちら)

※ 写真は8月1日に撮影したものです。


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プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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