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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第2回)

    (第1回はこちら)


2003年12月9日、Jリーグ合同トライアウト。
センターサークルに立った小林は、《点を取ろう。自分を信じて、思い切って行こう》と、再度心の中でつぶやいた。

黄色いビブスのC対青いビブスのD。
先制は小林たちだった。
8分、ペナルティアークに立った小林に縦パスが入る。ほぼ同時に、青いビブスを着けた味方が、自分の外側を駆け上がってくるのが視界に入った。
DFを背負った小林は、ターンしつつ右足のインサイドでワンタッチして自分の斜め後ろ、ペナルティエリア内右へとボールを流した。青いビブスの『40』が走りこみ、小林に付いていたDFが追走してファウル。PKを獲得する。

その瞬間、ちょうど1ヶ月前の試合が小林の脳裏によみがえっていた。
熊谷で行なわれたベガルタ仙台とのサテライトリーグ最終戦、小林はPKを外していた。インステップで思いきり蹴るのが彼のスタイルだったが、この仙台戦の際には、なぜか弱気になり、右足インサイドで置きにいってしまい、結果、GKに止められていた。試合は、2-3で敗れている。

PKを得た『40』番の選手はペナルティマークへと向かわず、後方の自分のポジションに戻っていった。
《・・・誰が蹴るんだろう?》
そう思っていると、「コバ!」と声がした。
それが自分を呼ぶものだと理解するのに、一瞬だけ間があった。
声の主は、大宮アルディージャの大塚真司。
Dチーム内でも年長の彼に目線でPKを蹴るよう促され、小林はペナルティマークに向かった。

サテライトの試合でPKを外したときから、次にチャンスが巡ってきたら思いきり蹴り込むと決めていた。
自分の手でボールをセットし直し、助走を取ってから、右足のインステップでゴール左を狙う。
ボールは、ゴール左上のネットを突き刺した。

その後、彼らは17分に同点弾を許す。
PKでのゴールで、《点を取ろう》という最低限の目標は果たしたと思っていた小林は、1-1とされ、《もう1点取る!》と思い直す。

試合は一進一退の攻防で続いた。
パスを出してくれるか不安だった湘南のサントスも小林のパスにリターンで応えるなど、チームプレーを重視してくれた。
彼に限らず、トライアウトだからといって、わがままなプレーに走る選手はいなかった。
そして26分、カウンターのチャンスが青チームに訪れる。
中盤右サイドにボールが渡ると、小林は早い動き出しでパスを呼び込む。
ペナルティアーク右脇付近でワンタッチしエリア内へ侵入し、2タッチ目に右足インステップでシュート。
トラップの瞬間、心の中で「決めるっ!」と、小林は叫んでいた。
シュートの瞬間は無心だった。
ボールは、GKの正面に向かったが幸いにも股間を抜けてネットを揺らす。
《気持ちが伝わったのかな》と思わされるゴールだった。
レッズでは、練習中のゲームも含め、絶好機に限ってシュートを外すことが多かっただけに、このゴールには感慨もあった。

開始から35分が経過し、2-1のまま試合終了のホイッスルを聞く。
《最低限のアピールはできたかな》との手応えがあった。
この日1日だけのチームメイトが集まり、互いに健闘をたたえ合う。小林に対しては、皆が口々に「ナイシュー!」と賞賛してくれる。
それが嬉しかった。

グラウンドでは、引き続きE対F、G対Hの試合が順に行なわれていった。
その間に味の素スタジアム内の風呂に入り、着替えも済ませる。
携帯電話を見ると、着信があり、留守番電話のマークも点灯していた。確認してみると、レッズ強化部スタッフから「すぐに電話をくれ」とメッセージが吹き込まれていた。

《もしかして―》

淡い期待を抱きつつ、折り返し電話を入れる。
JFLの横河武蔵野FCから練習参加のオファーがあったと報された。さらに数十分後には、J2モンテディオ山形からも、独自に開催するセレクションに参加してもらいたいとの申し出があったことが伝えられた。

まだ契約を勝ち取ったわけではない。

《でも、自分を評価してくれる人がいる》

レッズから契約満了を言い渡されてから2週間あまりの間で、20歳の青年の身に舞い降りた最良の出来事だった。

(第3回はこちら)

この原稿はメールマガジン第7号(2013年9月19日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『矢島慎也・野崎雅也とJリーグの20年』『2015年からの改革を前に今、Jリーグがすべきこと』

●記憶に残るあの一言
        
●あなたの『?』に答えます

などです。

なお、『人生は上々だ 小林陽介 第3回』は9月26日配信のメールマガジン最新号に掲載しております。



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『役割』 ヴァンフォーレ甲府戦 山岸範宏 興梠慎三

90+6分、ヴァンフォーレ甲府の青山直晃にボールを押し込まれた直後、山岸範宏の口から叫び声がついて出た。
しかし、数瞬の後には切り替え、彼は自らの手でボールをセンターサークルへと送っている。

山岸が今季初出場を遂げたのは9月7日。ナビスコカップ準決勝第1戦だった。
2-0とリードした後、3度、背後のネットを揺らされている。
どの失点の形も、彼に止めることを要求するのは酷なものではあった。
「でも、3点ともラストパスを出す選手、シュートを打つ選手への寄せがちょっと甘いかもしれないから、もっと行かせないと」
試合翌日、彼はそう振り返っていた。
「反省のない失点というのはないからね」
彼の以前からの信条だったが、直接聞くのは久しぶりだった。

もっとも、山岸は失点に関して、プレーとは直接関係のない部分でも反省点を見出していた。
「失点から10分以内にまた失点することが多いんですよね。そこはウチの課題」
川崎戦では、79分に大久保嘉人の豪快な一発で同点にされ、その1分後に逆転弾を喰らっている。

ゴールを奪われた直後にピッチ上の選手たちのメンタルがガクリと落ち、冷静さを失っているように見えることが今季何度かあった。
山岸もベンチ脇から見ている間、同様のことを感じていたらしい。
「失点から10分以内にまた失点することが多いんですよね。そこはウチの課題」と語った。
そしてその課題を、自分が何とかできないのかと考えてもいた。

「失点した後に、悪くなった流れを切るということが必要。年齢とかチーム内での立ち位置を考えても、それは自分の仕事のひとつなのかな……、と思います。そこはもっと自分もやっていかないといけない。大きな反省点のひとつ」

川崎戦から2週間が経った甲府戦、複数の決定機を防いできた山岸は、アディショナルタイムにネットを揺らされた。
そして、自らの手でセンターサークルへとボールを送り返した。
その直後、ペナルティエリア内に肩を落とした選手がまだ留まっているのを目にして、自らがエリアの外まで出て、チームを鼓舞した。両手を後ろから前方へ掻き出すように動かし、彼らの意識を、背中を『前へ』と押していた。


まもなく試合終了の笛が鳴ると、興梠慎三は仰向けにピッチに倒れ、荒い息を継いだ。

「チームが勝てば、自分はどうでもいいんすよ」

興梠はそう公言して憚(はばか)らない男だ。

「チームが勝ってるなら、『僕は自分の数字にはそんなこだわってないんですけどね』って思うんですよ。『チームが勝ってるなら、いいじゃないですか』って」
FWとして、得点を挙げるということから逃げているわけではない。
欲がないわけでもない。
興梠が『チームの勝利』を最重要視するのは、彼が人一倍、優勝にこだわっているからでもある。
ホームでの大分トリニータ戦、1-3とリードされて迎えたハーフタイムに、彼が「優勝したくないんか!」と語気を強めて口にしたことは、ファン・サポーター諸氏はご存知のはずだ。

もうひとつ、興梠が自分が得点することに強く固執しない理由がある。
得点以外のプレーも評価してもらいたいという思いを抱えているということだ。
だからこそ、彼はレッズサポーターに感謝している。
「自分で言うのもなんですけど、アシストしたり身体張ってキープしたり、レッズのサポーターはそういうのをちゃんと見てくれて、応援してくれてるんだなって思います」
移籍から数カ月を経たころ、彼は嬉しそうにそう語っていた。

今日の甲府戦、89分、山岸が前線へ大きく蹴り出したボールを、興梠はDF2人の圧力をものともせずに胸トラップで収めた。さらには自らの身体を盾とするようにボールを守り、相手の3人目が戻って来るとフォローについた味方へとボールを浮かせて逃がした。まもなく90分にという段階で見せた、力強さと軽妙さを兼ね備えることを示すそのプレーに、スタジアムには割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

あの拍手は、彼の耳に届いていたのだろうか。
届いていたと思いたい。
試合後、それを確認することは叶わなかった。
ミックスゾーンで報道陣から声をかけられた興梠は、「今日は勘弁してください」と言うように手を挙げ、去って行った。
筆者はミックスゾーンでの彼の行動をいつも追っていたわけではないので確証はない。だが、僕が見てきた限りでは、彼が無言で去ったのは浦和に来て以来はじめてのことだ。
もっとも、何より雄弁だったのは試合終了後の彼の行動だろう。

両チームの選手が互いに握手を終えると、サポーターへ挨拶に向かうチームメイトの流れとは逆方向に、興梠だけが歩き出した。
身体を引きずるようにしてベンチに辿り着くと、RECARO製のスタジアムシートにへたり込んだ。

そんな興梠を連れ戻しに行ったのが山岸だった。
「慎三は悔しさを滲ませながらベンチに戻っちゃったけど、サポーターへの挨拶は全員で行かなければいけなかったから、呼び戻しました。あれで呼び戻さなかったら、あのまま1周しちゃってたと思うから」
山岸はそう振り返る。
「どういう結果であろうと、僕らは結果を受け止めるしかない。勝てなかった後にサポーターのブーイングを浴びるのも、浦和の選手である責任だと思うから。だから、慎三も行かなきゃ駄目だと思って呼びに行った」、と。

たしかにこの日、浦和レッズは勝ち点2を失った。
しかし、それでも首位とのポイント差は4、残る試合数は8。
まだ下を向くには早すぎる。

(了)

【追記】

山岸がベンチに甘んじていた期間そうしていたように、この日の加藤順大も、試合後に肩を落とす仲間を励まして回っていたことを付記しておきます。

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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介 第1回

大原サッカー場から車で数分の距離にある、浦和レッズの選手寮『吾亦紅』。
2003年12月9日、小林陽介は7時半を少し過ぎた頃、寮の自室で起床した。
その日使うスパイクやトレーニングウェア、タオルなどは前夜のうちにバッグに詰め込んであった。黒いバッグの表面には、「33」という数字が目立つ大きさで白くプリントされている。
そのバッグは前年の2002年、彼がレッズでの1年目にチームから支給されたものだ。
部屋にはもうひとつ、そのシーズンの背番号である「24」がプリントされた同型のバッグもあった。
あえて、彼は「33」の方を持っていくことにした――。

1年目の背番号が決まったとき、小林は《33って数字に不思議な縁があるな》と感じていた。
小学校1年のときに生まれて初めて入ったサッカーチームで付けた背番号と同じだったからだ。以来、彼は「33」をラッキーナンバーとして捉えるようになっていた。

『33』のバッグを肩から提げて部屋を出ると、洗面所にいた加藤順大と中川直樹に声をかけられた。
「陽介君、がんばってね」
ふたりとも、小林にとってはユース時代の後輩にあたる。君付けで呼ぶのも敬語を使わないのも、ユースチームの雰囲気で、それがプロになってからも継続されていた。
8時に寮を出発した彼が車で向かった先は味の素スタジアム。
Jリーグ合同トライアウトに参加するためだった。


小林が翌シーズンの契約がないことを告げられたのは、トライアウトの2週間あまり前。リーグ最終節の5日前2003年11月24日。埼玉スタジアム第3グラウンドでの練習後に強化部スタッフから声をかけられ、スタジアム内の一室で知らされた。
悲しさ、悔しさ、寂しさ。
ネガティブな感情ばかりが湧いてきて、今後の身の振り方に思いを巡らせる余裕はなかった。わかっていたのは、まだサッカーを諦めることはできそうにもない、ということくらいだった。
翌日の夜、何とか気持ちの整理がついた。
《トライアウトに賭けよう。最後まで悪あがきしてやろう》
友人たちに自分に来年の契約がないこと、そして今の自分の決心を伝えるメールを送った。



朝8時に寮を出発し、10時には味の素スタジアムに到着。途中で寄ったコンビニエンスストアで買ったおにぎりと焼きそばを、駐車場に停めた車の中で食べ、受付がはじまる11時まで時間を潰した。
味の素スタジアム内で参加選手へのオリエンテーションがスタートしたのは12時。
参加総数は83名。AからHまでの8チームに分けられ、A対B、C対D、E対F、G対Hの4試合が行なわれる。
オリエンテーションが行われた会議室のような部屋の前方にはホワイトボードが置かれてあり、そこには『参加選手の皆様へ』と題して、『A、D、E、Fチームにポジションの空きがあります』と大きく記されてあった。

小林が割り振られたのはDチーム。
メンバー表の中に、『城定信次』の4文字を見つけ、少しホッとする。
城定は前年の2002シーズン後半、出場機会を求めてJ2アルビレックス新潟へと期限付き移籍。2003シーズンは浦和へ復帰したものの、出番はないまま。小林と同様に契約満了を言い渡され、このトライアウトに参加していた。
4-4-2システムで2トップを組む相棒となるのは、湘南ベルマーレのサントス。
《(レッズの)エメルソンみたいに、自分で行ってあんまりパスくれないタイプだったら、ちょっと嫌だな》
そんな不安が頭の隅をよぎりもしたが、それを振り払うように《とにかく、点を取ろう。自分を信じて、思い切って行こう》と心の中で念じ続けた。

小林の出番となるC対Dのゲームは2試合目。控え室でストレッチを済ませた後、A対Bの第1試合がキックオフされた13時15分には、スタジアムに隣接する試合会場『アミノバイタルフィールド』のゴール裏スペースへと向かいウォーミングアップをはじめる。反対側のゴール裏では、対戦相手となるCチームの選手たちが、同じように身体を動かしていた。
クリーム色のレッズの練習着の上から、『36』と白くプリントされた青いビブスを着け、小林はランニング、ショートパス、ダッシュといつもの手順を踏んでいく。そうやって身体を温めながら、頭の中では、事前に紙に書き出しておいた注意事項を何度も思い返し、自分に言い聞かせていた。

『ボールに対し一歩でも寄れ』
『トラップは足元に止めないで、動きながら』
『コーチング』
『First thinkingは裏に出る』

そのほとんどは、小林のレッズでのプロ2年間を指揮していたハンス・オフトから口酸っぱく言われ続けてきたことだった。

14時10分、C対Dの試合がはじまる。
Dチームはキックオフを取り、小林は湘南のサントスと共にセンターサークルに入った。
視察に訪れているJ1、J2、JFLの各クラブ関係者は100名に近い。
グラウンドには陽光が降り注いでいたが、少しだけ風が強かった。
試合時間は35分。
それが、小林に与えられた『次』を探すための時間だった。

(第2回はこちら)

この原稿はメールマガジン第7号(2013年9月12日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『GKのポジション争い』

●WARRIORS IN RED ― リライト 田中達也
        
●こぼれ話 田中達也と長谷部誠

などです。

なお、『人生は上々だ 小林陽介 第2回』は本日配信したメールマガジン最新号に掲載しております。



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9月14日 FC東京戦 『反省と期待』

FC東京戦、リプレーを見せられているかのような失点の形には、多少の失望を禁じ得なかった。それが正直なところだった。

失点に関して最初に思ったのは、1点目と3点目のFKは与えずに済まなかったのかということ。
どちらもハイボールに対して競る前に、相手選手を後ろからチョコンと押したことでファウルを取られてしまっている。笛が吹かれなければ、「マリーシア」の一種類に数えられるものなのかもしれないが、もったいなかった気がする。
もしかすると照明が目に入って目測を誤ったのかもしれない。
あるいは、フルコートを使っての練習をあまりやらない― フルコートでのメニューはゼロではないが、やったとしてもビルドアップからフィニッシュまでの組み立て確認が主な目的―弊害もあるのかもしれない。

このあたりのことは、別の機会に本人たちに確認してみたいと思う。
試合後に確認しきれなかったのは、DF陣がロッカールームから出てくるのが遅く、一方でチームバスの出発時間が迫っていたからだ。

失点について、セットプレーでの対応について、ずっと意見の擦り合わせをしていたそうだ。
彼らの話をまとめると、セットプレー時のラインコントロール方法については、共有されていなかったということだ。

「ある選手はラインを早めに下げて跳ね返す、ある選手はラインをギリギリまで止めて我慢する。そういうところの1人1人の考えの違いから、ああいうゴールが生まれたのかなと思いました」(森脇良太)

セットプレーで、ほぼ同じ形から3失点し勝ち点を得られなかったのは痛手だった。
だが、潜在的に抱えていた問題が浮き彫りになったとも言える。
山田暢久は試合後、守備陣で話し合ったことについて触れ、その話し合いによって「すぐ修正できることだと思う」とも語っていた。
同じ轍を踏まないことを期待したい。


上述のセットプレーへの対応についてだが、これは他の監督であれば真っ先に『約束事』として決めそうな事柄のようにも思う。
このあたりにもミハイロ・ペトロヴィッチという指揮官の、ある種の特殊性が伺える気がした。
ミシャ監督は、セットプレーはマンツーマンでというところまでは決めていたが、もう一歩先のところ―その際のライン設定はどこにするのか―までは徹底していなかったということだろう。
セットプレーでの守備について問われた監督はバスケットボールのルールを引き合いに出し、「背の高い選手をFKの前に入れて守って、それからまた替えることができれば」と試合後に語っていた。その表情を見れば、ジョークであることは明らかだった。とはいえ、そんな冗談が出ること自体、セットプレーでの失点については「仕方のないもの」として諦めている部分もあるのだろう、とも思わされた。
より正確には、マンツーマンの上から叩き込まれたような場合には、なのだろうが。というのも、試合前日のゲームメニュー中にCKを行なうことが偶にあり、集中を欠いてマークを外した選手がいた場合には、失点したか否かにかかわらず監督は烈火のごとく怒るからだ。
監督自身、そんなジョークを飛ばした後、「セットプレーに関しては高さに強い選手が揃っているるチームが有利だ。我々のチームは、GKも含めてボールをしっかりと扱える選手を生かしている」と付け加えてもいる。

(個人的には、この試合で3失点・勝ち点0という代償を払い、その末に、セットプレー時の守備のコンセンサスが構築されたのだから、確認の意味でもセットプレーの練習を採り入れてはと思うのだが、果たしてどうなるか……)。


ところで、監督は今季に入ってからも、「守備に割く時間があるなら、もっと攻撃面の練習でやらなければならないことがあるので、時間があったらそちらに回したい」という主旨の発言をしている。
その意味では、ナビスコカップ準決勝第1戦・川崎フロンターレとのゲームから見せている、これまでとは異なるビルドアップの仕方が興味深かった。

以前までは、3バック+阿部勇樹で最終ラインがビルドアップを行ない、中盤で鈴木啓太が中継して前線かサイドへというのが、主な型だった。
だが川崎戦からは、ダブルボランチがリベロの両脇に降りてきて、両ストッパーがサイドに開いた上で少し高い位置を取る形になっている。
大雑把に言ってしまえば、以前は4枚(中央2+サイド2枚)だったものを、5枚(中央3+サイド2枚)へと変えたのだ。
この変化について、FC東京戦後のミシャ監督は次のように語っている。

「攻撃の組み立てのところで川崎戦に続いて変化を見せた。相手は我々がシャドウあるいはトップに縦パスを打ち込んでくることを警戒していたはずです。我々はボランチの選手を落として3枚で回しながら、森脇と槙野を高い位置に持っていき、そのことでサイドから数的優位を作ってそこから侵入していく意図がありました。相手は渡邉・ルーカス・東・アーリアの4人が前に来て、ウチの4人にはめてくるような形だったと思いますが、なかなかボールの取りどころが限定できていないように思えました。2チームとも我々をはめ込むことはできていなかったように思います。新しい攻撃の形を、バリエーションのひとつとして持つことでもう一歩前進できると思います」

川崎戦以前までは、最終ライン中央から(必要ならば啓太を経由して)最前線中央へと、最短距離でボールを動かすたことをチームは大きな狙いとし、それが武器になっていた。
だが、そのやり方が警戒され、対策を講じられ、アウェイでの横浜F・マリノス戦のように封殺される試合も出て来てしまった。
その『迂回路』を開通させたということだ。


横浜FM、サンフレッチェ広島ともに勝ち点を取りこぼしたことは、レッズにとって幸運としか言いようがない。
その幸運を活かせるかどうかは、次節以降にかかっている。

次節、相手はヴァンフォーレ甲府。
前線には189㎝のFWパトリックがおり、彼は今節でもFKからヘディングでゴールを決めている。また、彼らは同じ3-4-2-1で来る可能性が高い。
その甲府に対し、どう守るのか。あるいは、いかに攻め倒すのか。期待したい。



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メールマガジン第7号連動 取材資料写真を公開

メールマガジン第7号の『WARRIORS IN RED ― リライト』 田中達也選手のこぼれ話にて触れた、長谷部誠選手取材時の写真です。
※ クリックすると大きな写真が表示されます。


● vflヴォルフスブルクのホームスタジアム『フォルクスワーゲンアレナ』と隣接する練習場。なお、この写真で見えているのはスタジアムのメインスタンド側。バックスタンドの裏側にも、練習場が設けられている。
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● 日本で野良猫を見かけるのと同程度の頻度で野ウサギを目撃。
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● 街中を走るバスの中には、vflヴォルフスブルクのラッピングが施されたものも。
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● ヴォルフスブルク駅から見えるフォルクスワーゲン工場
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● 都市名の由来となった『ヴォルフスブルク(狼城)』
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● 城門の上部には、名前の通り狼(にしては、ちょっと可愛らしいが)を象ったエンブレムがある。
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人生は上々だ かつての『レッズ』に会いに行く 千島徹(Additional Time)

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2009年11月、千島徹から電話をもらった。
「ご無沙汰してます。今、大丈夫すか?実はご報告があって…」
彼から引退の決意を知らされた。たしか、愛媛FCの公式HP上で発表がなされる2日ほど前だったと記憶している。

最初に思ったのは、《せっかくケガが治ったのだから、もう少しプレーできるのでは》ということ。
いや、正確に言えば、もう少しプレーできるのではと思ったというよりも、《もう少しプレーしている千島君を見ていたい》という筆者の一方的な願望だった。

とはいえ、彼のセカンドキャリアでの夢も聞かされていたし、彼が愛媛にいる間、定点観測的に数回現地を訪れてリハビリしているところも見知っていた。
無理は言えないなと思った。
だから、「そっか…、残念だけど、お疲れさま」と伝えた。

彼と再会したのは、件の電話をもらって5ヶ月ほど経った頃だった。
彼の方から「ちょっと聞いてもらいたい話があるんですけど」との連絡があり、大宮駅の待ち合わせスポット『まめの木』のオブジェ前で落ち合い、南銀座へ向かった。
入った居酒屋で僕はビールを、千島はコーラを飲みながら、話をした。
内容は、セカンドキャリアについて。

当連載でも触れていた通り、当時のアパレル業界は素人の参入を簡単に許してくれるような状況ではなかった。
そして、「やっぱり、サッカーからまるっきり離れてしまうのも、嫌だなって気持ちがあるんですよね」との思いを聞かされた。

サッカーとアパレル業を天秤にかけるような質問をいくつか投げかけた末、感じたことは、千島の身体の中にはサッカーへの愛情が離れがたいものとして根付いているということだった。
だから、サッカー界でやれることがあるかどうか、まずはそれを探してみた方がいいのではと、助言らしきものを伝えた。
千島からは後日、指導という形でサッカーに関わる仕事を見つけることができたとの報告をもらい、ほっとしたことをよく覚えている。

その後は、年に1回ぐらいは顔を合わせる関係が続いていた。
ただし、引退のことについて、根堀り葉堀り聞くのは今回がはじめてだった。

僕自身は、千島に対して「ケガにさえ泣かされなければ…」という思いがずっとあった。
だが、本人の認識は少し違うようだ。
ケガはたしかに辛いことだったが、そのおかげで学べたこともあったと千島は言う。そして、それ以外の面では、良いこともたくさんあったプロ生活だったと彼は考えている。
レッズでは、小学生時代から憧れていた福田正博と同じ時間を過ごすことができた。福田から直接話を聞き、学んだこともたくさんあった。デビュー戦では、その福田と同じピッチに立ち戦うことができた。

愛媛でも、楽しいことはたくさんあったと彼は言う。
中でも彼が忘れられないのは、2006年8月、移籍して最初の関東遠征となった国立競技場での東京ヴェルディとの一戦。
この日、国立のアウェイ側ゴール裏には、愛媛のオレンジだけではなく、レッズの赤もあった。千島を応援しようと、浦和サポーターがレッズ時代のレプリカを身に着けて応援に駆けつけてくれたのだ。
「オレンジと赤が交ざったあの光景をウォーミングアップのときに見て、泣きそうになりました。本当に感動的な光景でした」
千島はそう語る。
それは、誰もが味わえるものではない特別な景色だった。
「A代表にも入ってないし、成功したとは言えないかもしれないけど、自分としてはプロでの10年間は充実した時間でした」
千島はそう振り返っていた。

千島は今を、充実していると言う。
その『第2のサッカー人生』が、これからも変わらず喜びに充ちたものであってほしいと思う。

(了)

なお、この原稿はメールマガジン第6号(2013年9月5日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『新潟戦の意義、阿部勇樹のキャプテンシー』


●『世代交代 ― 79年組と調子乗り世代』(第2回)第1章『1979』

などです。


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「求ム、『嫌われ者』 」 ナビスコカップ準決勝、対川崎、第1戦 永田充

ナビスコカップ準決勝第1戦、前半は狙い通りの形だった。
大久保嘉人・中村憲剛・レナトといった面々をマンマークに近い状態で封殺、川崎にチャンスらしいチャンスを作らせなかった。
そして前半終了間際に先制、後半開始早々に追加点と、パーフェクトと言っていい展開だった。

しかし、後半15分にリベロの山田暢久が負傷退場、その3分後に川崎が森谷賢太郎を投入して3バックから4バックへと布陣を変えて以降、状況は変わっていった。
川崎のシステム変更から4分後には2-1に。しかも、その直前のプレーで足をつった坪井慶介もピッチを離れることになる。
その後、大久保の豪快な右足ミドル一発で同点、直後には逆転弾も喰らってしまった。

川崎が布陣に手を加えて流れをつかんだときに、ミシャ監督には適切な修正指示を出してもらいたかったと個人的には考える。
だが、たとえベンチからの指示がなくとも、ピッチ内の選手たちで判断して対応してもらいたかったとも思う。
少なくとも1人、それが可能だったかもしれない選手がいる。
永田充だ。



「それまでずっと出ている選手は体力的にキツかったと思うし、助けてあげたいという気持ちで入ったんですけど、結果として3点取られてしまったので申し訳ない気持ちがあります」
山田暢と交代してリベロの位置に付いた彼は、うつむきがちにそう語った。

「ラインの上げ下げがほとんどできなかったので、もう少しそのへんを(何とかしたかった)。周りがキツいのはわかっていましたけど、それでもやっぱりやらせないといけなかったのかなと思います。ラインが深くなってしまってスペースを自由に使われだして、バイタルの空いたところからシュートを打たれて入ってしまったので、そのへんをもっと早く修正したかったです」

永田がラインアップを諦めた背景には、チームメイトたちの状態を判断してという、もっともな理由がある。
「1回ラインを上げたんですけど、あまり付いてこれない状況だったので、僕だけ上がってもバランスを崩すと思いました。(中略)ラインコントロールは僕だけのことじゃないので、全体として上げるのはちょっと難しかったです」

永田は「ああいうときに違う戦い方、完全にブロックを敷いたりとか、そういう方法もあったと思います。自分たち選手で判断して、状況に応じてやってよかったのかなと思います」とも語っていた。

「自分たち選手で判断して」という反省の弁は、昨年から耳にすることが多い。
裏を返せば、ピッチ上の監督とでも呼ぶべき強烈なリーダーシップを取る選手がいないということだ。

あるいは、こう言い換えた方が適切かもしれない。
『嫌われることを厭わない選手がいない』、と。


前述のように、この日の永田は周囲の状況を見て、ラインアップをやめている。
その判断は、ある意味で冷静な、正しいものなのだろう。
だが、彼自身が「それでもやっぱりやらせないといけなかったのかなと思います」と口にしていた通り、チャレンジし続けてみて欲しかった。
永田が周囲の選手に鞭打ってラインコントロールを続けていたら、どうなっていたのか――。
彼の言葉通り「バランスを崩して」失点していたかもしれない。
だが、足をつった坪井がピッチを離れてから大久保の同点弾までは10分以上あった。試合終了までは無理だったとしても、川崎へ傾いている流れを一時的にでも堰き止め、引き戻すきっかけを作れたかもしれない。


強烈なリーダー、あるいは嫌われることを厭わない選手の不在は、実は先日の横浜F・マリノス戦でも強く感じていた。
あの試合の2失点目と3失点目は、マルキーニョス、中村俊輔の素晴らしいシュートによるものだった。
だが、どちらの場面でも、レッズの守備の人数は足りていた。
この2失点について、坪井はこんな反省を口にしている。
(筆者注:横浜戦については、坪井選手は他にも色々と反省の弁を述べているのですが、主旨がズレるのでここでは触れません)。

「自分が守るだけじゃなくて、周りの守備の統率・連動の部分でももっとリーダーシップを取ってやってかなきゃいけないかなというのは、ありますね」

それができなかった理由は、そもそもこれまでに彼がこなしてきた役割が、リーダーシップを求められるものではなかったということがひとつ。
もうひとつが、あのときの彼の精神状態。先制点を与えるきっかけのひとつは、彼から那須大亮へのパスが相手に触れられてしまったことだ。「那須には悪いことをしてしまった」と、試合後の坪井は責任を口にしている。
ミスをおかしたことによって周りに主張しづらくなってしまうというのは、非常にわかりやすい心理作用だ。
だが、そうやって為した『遠慮』が、結果としてピッチ上で更に悪い状況を呼ぶこともある。
たとえば外国籍選手(すべてではないが)たちは、自分のミスを棚上げにして主張すべきところは主張することができる。そういうメンタル面での強さを持っている。
多くの日本人にそれができないのは、思ったことを口にするのを躊躇ってしまうのは、嫌われる・不興を買うことへの怖れが心の奥底にあるからではないのだろうか――。


筆者自身は、他人に嫌われないで済むのならば、それに越したことはないと思っている。
だから、選手たちにあまり強く言う資格はないのかもしれない。

だが、タイトル獲得を最優先課題とするならば、選手たちは嫌われることを、不興を買ってしまうことを怖れるべきではない。
ピッチ上のことはピッチ上のこととして割り切れるだけの関係性が、今の選手たちの間にはあるとも思う。

これから先チームに必要なのは、『嫌われ者』になれる選手の出現である気がしてならない。


【追記】

強烈なリーダーシップの発揮をまず求められるのは、キャプテンなのだろうとは思う。
しかし、阿部勇樹のパーソナリティの「方向性」とでも言うべきものは、『強烈』なキャプテンシーとは少し異なるもののように個人的には見える。

以下はメールマガジンに記したことと重複してしまうが・・・

阿部は確かな技術を持ち、かつ勇猛果敢な素晴らしい選手だと筆者は思っている。
だが、先頭に立って集団を引っ張っていくようなリーダーシップの持ち主かと問われれば、首をかしげざるをえない。
どちらかと言えば、阿部は集団の最後尾に位置し、そこから遅れそうになる選手を後ろから押し上げるタイプだ。
大原サッカー場での彼は、それを体現してもいる。
ランニング中、歴代の多くのキャプテンとは異なり、阿部が先頭に立つことはない。ほぼ最後尾に位置してゆっくりと足を運ぶ。パス練習では、相手にあぶれていた若手を真っ先に見つけ、「おい、一緒にやるぞ」と誘ったこともあった。そういう優しいキャプテンなのだ。

・・・とはいえ、選手たちにとっても、発言に一番説得力がある同僚は阿部のはずなので、彼がその殻を破ってくれることに期待したいと思う。


【追記2】

念のため。筆者にはこの試合の永田充選手を批判しようという意図はありません。
新潟戦のMDPでも触れましたが、彼自身のコンディション・試合勘などは、まだ50%を上回った程度。
その状態の中でできることを、難しいシチュエーション下で投入されながら、こなしていたと思います。

彼の川崎戦後の発言中に、ピッチ上でのリーダー論とでも言うべきものへの端的な素材が含まれていたので、彼を中心に書かせてもらいました。
もちろん、永田選手にももっとリーダーシップを発揮してもらいたいという個人的な願いはありますが、今回はあくまで一般論を展開する上でのわかりやすい具体例として、取り上げたつもりです。

このあたりのことも伝わるように書くべきだったと、反省しております。
永田充選手のファンの方で不快な思いをされた方がいらっしやいましたら、誠に失礼いたしました。


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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 千島徹

               (第5回最終回)
               (第4回はこちら)


週6日働くうち、目指していたセカンドキャリアであるファッションの世界に携わるのは1日だけ。残る5日間はサッカーのコーチ業で生計を立てる。
そんな生活が引退翌年の2010年5月からはじまった。
古い知り合いからこう言われたこともある。
「千島君がアパレルでサービスを提供するよりも、サッカーの技術を提供する方が、世間に対しての貢献度は高いと思うよ」
頭では理解できた。だが、すぐに心には響かなかった。
心の中心には、アパレル業界での夢があった。

しかし、数カ月ほどすると、気持ちの天秤は少しずつファッションからサッカーへと傾きだしていった。
セレクトショップで働く前日にも、翌日にも、コーチとして千島はフィールドに立っていた。
そこが天然芝ではなく、人工芝や土のグラウンドだったとしても、サッカーのフィールドは居心地がよかった。

一方で店に立てば、お客さんの出入りに合わせて「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」と声を出す。そんな自分を客観視する『もうひとりの自分』が生まれつつもあった。

サッカーとアパレル業界での仕事を並行してこなすことは、図らずも、千島に両者をくらべさせることになっていたのだ。

「千島君がアパレルでサービスを提供するよりも、サッカーの技術を提供する方が、世間に対しての貢献度は高いと思うよ」

知り合いから向けられた言葉が、千島の中でどんどん大きくなっていった。

千島は、その2010年いっぱいで、セレクトショップでのアルバイトに区切りを付けた。
夢を諦めたわけではない。
いったん『棚上げ』にしたのだ。
まずはサッカーで足元を固めることに集中しよう、そう彼は考えていた。
ブランド立ち上げを常に頭の隅には置きながらも、まずは指導者としての地歩を固めることに千島は注力していった。C級だが、ライセンスも取得した。

かつて引退の決意を伝えた際、バルバリッチ監督からこんなことを言われている。
『洋服を作ることは40歳になってもできるだろ?サッカーは今しかできないじゃないか』
今の千島はこう語る。
「あのときの自分の心の中には、監督が言ってくれた言葉が入って来なかったんですけど、今はわかります・・・」
とはいえ、選手時代を憧憬の眼差しで振り返ってばかりいるわけではない。
現在では指導者という仕事に対して、選手時代に味わっていた充実感に近いものを抱くようになっている。
転機は昨2012年の夏、引退から2年8ヶ月ほど経た頃にやってきた。
少年団時代の監督から、知り合いのフットサルコートのオーナーが子どもを対象としたサッカー教室のコーチを探しているのだが、やってみないかという話を持ちかけられたのだ。
さらにその1週間ほど後、かつてのチームメイトから電話をもらう。
「徹、今何してんの?」
電話の主は福永泰だった。
福永には、レッズからベガルタ仙台へ移籍して引退した後、フットサル界で指導者として過ごした時期があった。そこで知り合った元フットサル日本代表選手が、フットサル教室とは別にサッカー教室を開くため、現役を退いたJリーガーを探しているとのことだった。

実は、話の出どころこそ違えこのオファーは同一のものだった。

場所は国道254号線沿い、川越市にあるフットサル場『FUTSAL CLUBE JOGA』。
そこでは水曜日と金曜日の週2回、フットサル日本代表のキャプテンを務めていた市原誉昭(たかあき)がフットサル教室を開いていた。
そして、市原とフットサル場のオーナーは、「フットサルで要求されるアイデアや迅速な判断力はサッカーにも活かせるはず」と考え、その理念に基づいてサッカー教室を担当できるような人材を探していたのだ。
ふたりが語るその理念は、千島にも魅力的なものに聞こえた。
ブラジル代表のネイマールがフットサル出身のサッカー選手だという事実を知ったことも、彼らの理念への共鳴に拍車をかけた―。

2012年9月、『FUTSAL CLUBE JOGA』にて、千島をコーチに迎えたサッカー教室の無料体験がスタート。
ひと月後の10月、正式にスクールが開校した。



現在、千島の心の中には2本の柱が立っている。
大黒柱と呼ぶべきものがサッカー。
それを補助する支柱として、ブランド立ち上げという夢がある。
「でも、やりたいブランドのイメージも、現役の頃に思い描いていたものからは多少変わってますかね」と千島。
「現役のときは、広く洋服全般という感じだったんですけど、今はサッカーテイストのものも興味があるんです。そのこだわりは、かなり強いですね」
中学時代からの親友とブランドを立ち上げるため、週一回、ファミリーレストランで落ち合ってのミーティングも欠かしていない。

「今は、指導者とデザイナーの両方やりたいんです」

そう口にしてから、千島は『指導者』の部分に注釈を加える。
「指導者というよりも、『サッカー人間』でいたいんですよね」
たとえばコーチとして子どもたちと接するときも、いかにも指導者然とした格好ではなく、ファッション性も考えた上でウェアを着こなす。
そこには、以前から変わらない千島徹らしいこだわりがある。

「どこかでいつも、元プロサッカー選手だったときの部分を持っていたい。現役感みたいなものを持ち続けていたいんです。もちろん、40歳50歳になったら難しいかもしれないですけど、少なくともあと5年ぐらいは現役感を出したいんですよ。だから、身体も鍛えておきたいし、雰囲気も良い意味で落ち着いてない部分も残しておきたいというか。
別にチャラチャラしていたいってわけではないんです。ただ、子どもたちが『現役の選手に教えてもらっているんじゃないか』と錯覚を起こすような指導者になりたいんですよ、オレ。
たとえば、教えてるとき、常にパッと見本を見せられるような。だけどその見本が、お腹が出て足がもつれてたりしたら、サマにならないじゃないですか。外見も含めて、現役の選手が手本を示しているような感じでやってあげたいんです」

千島の熱弁は続く。

「勘違いしてるって言われてもいいんですけど、引退した今も未だに、子どもには夢を与えてあげたいんです。自分を通して、『サッカー選手ってこんなにカッコイイんだ、こんなに上手いんだ』って思っていてもらいたい。もちろんいちばん大事なことは、子どもたちに技術や動き方を伝えるときに、その技術で大切なことは何か、その動きのポイントとなるのは何かをしっかりと伝えること。それをきちっとやった上でのことですけどね」

文字にしてしまえば、彼の発言を青臭いものと感じる人もいるかもしれない。
だが、このときの千島の表情には照れくささの色は微塵もなく、ただただ情熱だけがあった。


引退を決意したあのとき、彼の胸にあったのは、親友と自分たちのブランドを立ち上げることだった。
その夢は、今も健在だ。
そして――。
あのときにはなかった新たな夢が今、彼の胸には大きな存在感をもって息づいている。
「自分が生まれ育ったこの川越から、埼玉から、サッカーとフットサルを融合した指導の中から、将来浦和レッズや愛媛FCでプレーするような選手を育てたいんです」
2009シーズン終了をもって引退した千島徹は、紆余曲折を経て新たな居場所を手にし、夢の途上に立っている。

(了)

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●千島徹・市原誉昭両氏が教える『Paz Jr.Football Academy』様のブログはこちらから
http://ameblo.jp/pazjrfootball/


●会場となる『FUTSAL CLUBE JOGA』様のサイトはこちらから
http://www.futsal-joga.com/



なお、この原稿はメールマガジン第5号(2013年8月29日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『梅崎司の現在、山田直輝の未来』


●『WARRIORS IN RED ― リライト』& こぼれ話 原口元気

などです。


 




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『変わるもの、変わらないもの』 田中達也

「好きでレッズを出たわけじゃないのに、なんでブーイングされないといけないの」

翌年の契約を勝ち取れなかったがゆえに浦和を離れなければいけなかった選手たちが、『古巣』との対戦を前にそうボヤくのを幾度か聞かされたことがある。
《まあ、そう感じるのはもっともだよな》と思う。

ただし、興味深いのはこの後だ。
レッズサポーターからブーイングされることに不満を口にしていた選手が、実際にブーイングされた試合後には、こう語るのだ。

「レッズのサポーターが自分のことを覚えていてくれてるんだと感じて、嬉しかった」と。

そういった過去があったから、今日、自宅を出たときの筆者はこんなことを想像していた。
試合前のメンバー紹介では、田中達也に対しての愛情がこもった盛大なブーイングがスタジアムを満たすことを。
試合後には、達也がそれに対し、何らかの形で謝意を示すことを。

結論から言えば、筆者の想像はどちらも外れた。

彼の名前がアナウンスされたとき、たしかにブーイングはあった。
しかし、それを掻き消すほど大きな拍手が鳴り響いた。
レッズから国内移籍 ―その理由がどうあれ― した選手への反応としては、クラブ史上希に見る出来事と言ってよかった。
やはり『田中達也』は特別なんだなと、なぜだが自分まで嬉しくなってしまった。


その盛大な拍手が送られてから2時間45分が過ぎた頃、彼はミックスゾーンに姿を現した。

「自分のミスが続いたのでチームに迷惑をかけたなと思います」

それが、第一声だった。
うつむく彼を慰めようとするかのように、報道陣からは「でも、左足での惜しいシュートもあったけど?」と水が向けられる。
ある意味での自身のプレーへの賛辞に、彼は笑みひとつ返さない。
代わりに、自分自身が納得ができなかった点を口にする。

「それよりも、他のところの繋ぎの部分でチームの役割を上手く果たせなかった。だから、交代したのだと思ってます」

《変わってないなぁ》と思わされた。
チームが勝利しても、絶対に大言壮語はしない男だった。
決勝ゴールを挙げても、「点が取れたのは、後ろでしっかり守ってくれたDFと、パスを出してくれた中盤の選手のおかげです」と語る男だった。
敗戦後に言い訳は口にせず、責任を負おうとする男だった。

何よりも彼らしいと思わされたのは、メンバー紹介時のレッズサポーターの拍手について問われたときの答だ。
「(拍手については)嬉しいですけど、アルビの一員として今日は勝ち点3を取って帰りたかったです。非常に残念です」
視線を落としたまま、そう口にした。

かつて浦和の背番号『11』を背負っていた男は、もうすっかり新潟の背番号『9』になっている。
だが、『田中達也』という人の中身は、何ひとつ変わっていなかった。



【以下、追記です】

この日、アウェイ側ゴール裏最下段には【オレンジ・青・白】の横断幕が3枚、掲示されていました。

1枚は『 La FAMILIA』 。
1枚は 『SURVIVE』

おそらくこれら2枚は、新潟サポーターの方たちがとても大切にしているはずのものと思われます。

そして、この2枚を覆う形で 『田中達也』 の横断幕が掲示されていました。

この一事からだけでも、彼は新潟で愛されてるんだなとわかり、とてもホッとした気持ちにさせられました。


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『新たに得たもの』 アルビレックス新潟戦 槙野智章

1-0の勝利で試合が終わり、オーロラビジョンに両チームのボール保持率が示される。
新潟が浦和をわずかにだが上回っていたことが明示されると、スタジアムにはどよめきが湧いた。

第24節アルビレックス新潟戦は、昨年からミハイロ・ペトロヴィッチ監督が志向し、選手たちが貫こうとしてきたサッカーとは明らかに異なるものだった。

「マリノス戦では自分たちのビルドアップのところから失点してしまいました。今日は相手が前からプレッシャーに来た中で、パスで崩すというよりもロングボールを入れて、押し上げてセカンドボールを拾うというサッカーに自分たちで話し合って変えた」

試合後、槙野智章はそう振り返った。
ただし、その『変節』は、槙野によればあらかじめ想定内のことだったという。
そして、ミシャ監督もそれを許容していた。

『次の試合は自分たちのサッカーができなくても、泥臭くてもいいから戦って、何が何でも勝つんだ』

横浜で敗れた翌日から今日まで、毎日のように指揮官は選手たちにそう伝えていた。

さらに言えば、新潟が前からプレッシャーをかけに来ることは、スカウティングの段階で充分に予想できていたことだった。夏場の試合、しかも連戦最後のゲームでもあった。

そういったことを考慮しての、この日の『変節』だった。

槙野は語る。
「臨機応変に、相手に応じてプレーを変えるという意味で上手く対応できたかなと思ってます。今のチーム状況を考えれば、内容よりも結果だと思います。自分たちのサッカーを貫き通すことも大事だと思いますけど、時には自分たちのサッカーを捨てて、やるということもひとつの策だと思います」

個人的には、美学に殉じる生き様は嫌いではない。
しかし、彼らのように大きなものを背負う人間たちがすべきことかと問われれば、即答は難しい。

この新潟戦、ミシャ監督と選手たちは、自分たちの美学を捨てた。
それゆえに、試合終了後に選手たちがTシャツを通して伝えた『王座奪還』というメッセージには、より一層の説得力があった。
美学と引き替えに、この日、彼らは新たな武器を手に入れた。
そう言っていい一夜だったと思う。

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プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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