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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第5回)

(第4回はこちら)


横河武蔵野FCでの1年目、小林陽介はリーグ戦30試合中29試合に出場、12ゴールを記録。
翌2005年も同じく25試合でプレーしたものの、得点は3にとどまる。
3シーズン目となった2006年。
JFLは加盟クラブが2つ増え、18チームへ。前後期合わせて全34節が行なわれ、小林は33試合に出場。
積み上げたゴールは、23にのぼった。
小林はこう振り返る。
「ポジショニング、ゴール前への入り方やシュートの技術というのは良くなったと思います」
そのどれもが、チーム練習後の居残りで試行錯誤しながら磨いていったものだった。

「あとは、それまで以上にガムシャラさがありましたね。『何が何でも』という気持ちが、3年目はすごく強かったです」

3年という時間は、小林にとってひとつの区切りだった。
小林の目標は、もう一度プロサッカー選手になること。一方で、所属する横河武蔵野FCは、プロ化に踏み切るつもりはないようだった。
「もう3年目なのだから」と、わかりやすい結果を出して他のクラブの目に留まらなければという危機感は強かった。時折組まれるJクラブとの練習試合では、JFLの公式戦以上に気負ってしまう部分もあるほどだった。

しかし、33試合23得点という結果を残しても、他のクラブからオファーが来ることはなかった。
そこで小林は、オフシーズンに開催されるJリーグ合同トライアウトへの参加(JFL所属選手も参加可能)をクラブに願い出た。
小林の目標を知るクラブはこれを了承。
年が明け、迎えた2007年1月9日、フクダ電子アリーナでのトライアウトに参加する。

この小林の決断は功を奏した。
トライアウトを終えてまもなくロッソ熊本(当時)から声がかかったのだ。
熊本は、前年の2006シーズンに九州リーグからJFLへ昇格してきたばかりのチームだったが、そのJFL初年度を横河よりひとつ上の5位で終えていた。トライアウトの半年前にあたる2006年の夏には、Jリーグ準加盟の承認も受けている。

小林に示された契約内容は、サッカーをすることでお金が貰えるというものだった。
つまりは、彼が目指していたプロ契約。
「もう1回プロ選手としてサッカーができるということになって、レッズユースからトップに上がったときのような高揚感がありました」
2007年1月末、小林は熊本と契約を結び、プロ選手としての『第二歩』を踏みだすこととなった。


東京都板橋区で生まれ育った小林にとって、生活の拠点を関東圏以外に定めるのははじめてだった。若干だが、不安もあった。
しかし、熊本の人たちは温かかった。
ファン・サポーターとの距離は、浦和や横河在籍時に比べとよほど近いもので、それが心地よくもあった。
たとえばレッズ時代、大宮駅や浦和駅周辺を歩いていても、小林が声を掛けられることはほとんどなかった。選手のプライベートを気遣うべきという認識がファン・サポーターの間に浸透しているためであり、同時に、彼自身の知名度の低さが理由でもあった。ごく希に声を掛けられはしたものの、それは、当時頻繁に行動を共にしていた千島徹の存在によるものだった。
「まず徹君がファンの人に気付かれて、その後に徹君の隣にいるオレも、ついでに気付かれるって感じでしたからねえ」
苦笑しつつ、小林は述懐する。
だが、熊本は違った。
『熊本にJクラブを――』
そういった気運が、当時の熊本の街にはあった。
「だから、その街のスターみたいな感じで扱ってくれるんですよ。街を歩いていて『頑張ってね』と声を掛けてもらえることが多かったです」
3月18日にJFL前期が開幕し、その試合で小林はベンチ入り。3日後の第2節では途中出場でロッソでのデビューを果たす。
その後、試合出場を重ねるにつれ、街角の老若男女からの声援は増していった。
「それが、サッカー選手として、すごく嬉しかったです」と彼は語る。

この熊本での1年目、小林は22試合に出場、5ゴールを記録することになる。
その間、11月11日には、アウェイでFC琉球を4-0と降したことでJ2昇格条件の4位以内を確定させてもいた。
「自分自身の貢献度という点では満足はしてないですけど、ひとつのミッションをみんなで成し遂げた達成感はありました。何が何でもJ2へ上がるって感じがあったので、それが実ったのは嬉しかったです」

小林が4歳上の女性と婚姻届を役所に提出するのは、このFC琉球戦当日の11月11日だ。
小林にとって、ラッキーナンバーは生まれてはじめて付けた背番号である『33』だったが、憧れていたのは少年時代からのヒーロー三浦知良の『11』。横河での3シーズン目には、念願叶ってその番号
を付けてもいる。
これにちなんで11月11日に入籍しようということは、ふたりで話し合って決めたことだった。
沖縄から熊本に戻り、彼らは熊本市役所に駆けつけ、日付が変わる前に何とか届け出を終えている。

妻となった女性とは、横河所属1年目の夏にチームメイトの紹介で出会っていた。3年数カ月の交際期間のうちには、10ヶ月ほどの遠距離恋愛が含まれている。
そのきっかけはもちろん、小林の熊本への移籍だ。
だが、ロッソからのオファーを報告したとき、彼女は反対の色を微塵も見せなかったそうだ。
「もう1度プロになることが自分の目標、夢だってことは知っていたので、すごく喜んでくれました」
照れたそぶりも見せず、そう口にする。
サッカーにつていも同様だが、自分が愛情を注ぐものについて語るときの小林はストレートだ。

ふたりが式を挙げるのは入籍から2ヶ月後の2008年1月。
都内で開かれた宴には、ロアッソ熊本の監督・池谷友良をはじめ、横河時代にお世話になった酒屋の店主夫妻らが主賓として招かれ列席。披露宴での余興と場所を変えての2次会では、横河時代のチームメイトが中心となり、そこにレッズユースの仲間たちが加わって盛大にふたりの門出を祝福した。

(第6回へつづく)


※この原稿はメールマガジン第12号(2013年10月17日配信)から一部を転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『天皇杯モンテディオ山形戦 再会』

●『WARRIORS IN RED ―リライト』& こぼれ話 堀之内聖
        
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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く EXTRA 堀之内聖

(全2回の2)
(その1はこちら)

10月6日、東京・西が丘の味の素フィールドでのJ2第36節。
対戦相手は横浜FCだった。
昨年所属していたチームとの一戦に、堀之内はボランチで先発。
両サイドバックが果敢に攻め上がる山形は、ともすればバランスを崩しがちとなる傾向があったのだが、堀之内は自身のポジショニングで攻守の均衡を上手く保っていた。
試合はアウェイながら山形が圧倒しつつも、0-0のまま進んだ。
しかし、先制は横浜。
後半9分、選手交代を機に横浜はシステムを変更。この変化に対応しきれないうちに流れを譲った末、山形はPKを献上してしまう。

圧倒的に攻めていながら喫した先制点に、山形の選手たちは数瞬だが立ち尽くした。
真っ先に動いたのは堀之内。
ネットを揺らしたボールがまだゴール内でバウンドしているうちに駆け寄ると、ボールを拾い上げ、踵を返してセンターサークルへと向かった。

その後、山形は流れを引き戻す。
しかし、ゴールを割ることができない。
時間の経過と共に焦りが募っていく。
後半24分には、横浜エンド中央付近でボールを持った堀之内が、相手ボランチに背後からチャージされて転倒する。
山形のFKとはなったものの、そのファウルは主審がイエローカードを提示することもない程度のものだった。
しかし、立ち上がった堀之内は怒りを抑えようともせず相手選手に詰め寄る。非常に希なことだった。
この試合に掛ける彼の思いが、表に現れた場面のひとつとだった。

試合は0-1のまま90分を迎え、アディショナルタイムに突入。
そして90+2分、ゴール前のこぼれ球を山形が押し込んで1-1に。
試合終了の笛が鳴ったのは、それから3分あまりが経過してからだ。
堀之内は自陣ペナルティエリア内右で座り込んでいた。
最後のプレーで、途中出場の永井雄一郎のドリブルに追いすがった末、同僚と2人がかりで彼の突破を防いだ直後だった。
右ふくらはぎは痙攣を起こし、すぐに立つことはできなかった。
チームメイトにふくらはぎを伸ばしてもらってから、堀之内は右足を引きずり気味に歩き、試合後の挨拶を交わすために整列しつつあるチームメイトの後方へ加わる。
相手チームの同じような位置には、仏頂面を浮かべる永井の姿があった――。
後半35分、1-0の時点で投入されていた永井にとって、自分が出場してからの同点弾は屈辱的と言っていいものだった。
永井は浮かない表情のまま、山形イレブンとおざなりの握手を交わしていく。
ようやく満面の笑みをたたえたのは、目の前に堀之内が来た瞬間だった。
ふたりは互いの右手を、固く握りあった。


堀之内が取材エリアに現れたのは、試合終了から50分近くを経て。シャワーを浴び、チームスーツに着替えた後の時間を、お世話になった横浜FCの選手・スタッフらと旧交を温めるのに費やした後のことだ。

「個人的には、前半飛ばしすぎて危なかったです」
それが、彼の第一声。
前所属チームとの初対戦(3月末に山形で行なわれた横浜戦では移籍後初のベンチ入りを果たしたものの、出場はないまま)だっただけに、気合いが入り過ぎたことを、苦笑しながら明かす。
「そういう気持ちを出すと上手くいかないことが多かったので、試合前はあまり意識しないようにとは思っていたんですけどね」
再び苦笑を浮かべ、そう口にした。

「試合後には横浜のサポーターも声援をくれて、本当に嬉しかったですし、『まだやれてるよ』ということも見せられたと思います。それに、場所が東京ということで高校・大学時代の友だちも観に来てくれて、そういうことが力になったし、ホント嬉しかった」

ある意味では、この日の西が丘の主役は堀之内だった。
そう言っても決して大げさではないと、筆者は思っている。

その後も、彼を囲む報道陣の輪はしばらくの間、解けることがなかった。
10日後には、浦和駒場スタジアムでの天皇杯3回戦が控えていたからだ。

大学卒業後の10年間を過ごしたチームとの初対戦について問われた彼は、次のように答えている。

「まずは試合に出られるように、しっかりと準備したいです。浦和も試合が詰まってますし、どんなメンバーで来るかはわからないですけど、どんなメンバーが来たとしても、強いですからね」

そう言って、この日幾度目かとなる笑顔を浮かべると、こう続けた。
「そのことは、僕が一番知ってますから」


来たる10月16日――。
駒場には、山形サポーターから堀之内へのエールが2種類、鳴り響くことを筆者は期待している。
ひとつはレッズ時代に生まれた、「ホ・リ・ノウチッ、ホ・リ・ノウチッ」と、彼の姓を連呼するコール。
もうひとつが、かつて山形に在籍した選手のチャントを受け継いだもの――。
その選手は、2004年にブラジルから来日したレオナルド。185㎝・82㎏という屈強な体躯を活かし、彼はゴール前の砦として立ちはだかると、前年を12チーム中8位で終えたチームを4位にまで引き上げる原動力の一翼を担った。
その後2009年まで計6シーズン、レオナルドは山形一筋でプレー。2008年にはクラブの悲願たるJ1昇格に大きく貢献した。
『山形サポーターにとってのレオナルド』とは、言ってみれば『レッズサポーターにっとってのギド・ブッフバルト』だ。
そんな存在だと評しても、誉めすぎではない。

そのレオナルドの応援歌を、堀之内聖は受け継いでいる。
彼はそれに値するだけの男だと、僕は思っている。

(了)

※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月10日配信)から一部を転載したものです。
他のコンテンツは
●大原ノートから 『森脇良太 自虐からの前身というスタイル』
●あなたの『?』に答えます 『岡本拓也と小島秀仁 同期の行方について』 
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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く EXTRA 堀之内聖

(全2回の1)

2011年、堀之内聖はリーグ戦5試合・カップ戦1試合にベンチ入り。しかし、出場機会は与えられないままに、浦和レッズでの10年目のシーズンを終えることとなった。
そして、リーグ戦終了から数日を経た12月7日、彼の契約満了が発表される。

「引退は……、考えましたね」

堀之内はそう振り返った。
「あの年は、本当に1分も試合に出ることができなかったので、サッカー選手として失格の烙印を押されたというか(苦笑)、『もう無理だよ』って暗に言われている感覚がありました。ケガもあってそういう結果になってはいたんですけど、実際のところ、自分がもう1年サッカーをできるのかという不安がありました。それに、自分がプロを続けたかったとしても、他のチームからのオファーがなければ、選手は続けられないので……。だから、本当に悩みに悩みました。悩んだ末に最後は、もし他のチームからオファーがあったら、受けよう。それがないのであれば、しょうがないな、と覚悟を決めていました」

その年のレッズは、リーグ戦終了後に行なわれた天皇杯4回戦で愛媛FCを破り準々決勝へ進出。平川忠亮・坪井慶介ら『79年組』は《ホリと一緒に国立に行く》と意気込んでいた。しかし、つづくFC東京との試合に敗れ、シーズンの終幕を迎えることとなる。
敗戦翌日の12月25日、チームは大原サッカー場に集合して15分ほどのミーティングを行ない、シーズンの全活動を終えた。
その後、堀之内はグラウンドに出ると、5、6名の同僚たちと共に1時間ほどもリフティングゲームに興じた。ゲームの終わりと同時に彼の身体はチームメイトたちに囲まれ、気づいたときには宙を舞っていた。
それが、10年間慣れ親しんだ大原との別れだった。

チームが天皇杯を戦っていた間、堀之内の元へ届いたオファーはなかった。
ジリジリした気持ちのまま、めでたいはずの新年を迎える。
吉報が届くのは年明けから数日が過ぎてのこと。電話をもらい、翌日には直に会って話を聞き、間もなく契約書にサインを記す。
その相手が、横浜FCだった。

「そのときは、1年間試合に出ていなかったので、正直、不安の部分が大きかったんです。だけど、もう1年サッカーを続けられる喜びも、やっぱりありました。あとは、見返したいという気持ちもあって、それがその後の自分の原動力になりましたね」

迎えた2012年、J2開幕戦。
堀之内はベンチ入りし、第3節にはデビュー。以降数カ月はベンチから試合を見守る時間の方が長かったものの、7月に入るとレギュラーの座を獲得。最終的には計22試合に出場・2ゴールを記録。チームはリーグ戦を4位で終え、J1昇格プレーオフへと駒を進めた。
しかし、5位のジェフ千葉をホームに迎え、自身のJ1復帰を賭けてフル出場した一戦には、0-4と大敗。
その後の11月下旬には、クラブから契約満了を言い渡されることとなる。
これを受け、堀之内は自身のブログにチームへの感謝を込め、こう記している。

『今年の一月、移籍先が見つからず引退も覚悟していた自分を最後に救ってくれたのが横浜FCでした。
そして、去年ピッチに立つ事ができず、サッカー選手としての自信、プライドを失いかけていた僕を、もう一度サッカー選手にしてくれました。』

『もう一度サッカー選手に』なった。
彼のその認識は、うぬぼれなどではない。
それを証明する事実こそが、年内に受けたモンテディオ山形からのオファーだった。

山形で与えられた背番号は『5』。
大学時代に着けていた愛着のある番号であり、プロになってからは初となる一桁の数字でもあった。

移籍当初はインフルエンザやケガの影響で出遅れたものの、4月17日の第9節にCBとして途中出場し、デビュー。
つづく第10節では移籍後初先発を果たす。
ただし、ポジションはCBではなくボランチ。出場停止の選手の穴を埋める形だった。
ホーム・NDソフトスタジアム山形でのその試合は、季節外れの大雪を必死の除雪作業でピッチの外に押し出した末、なんとかスタート。雪の舞い落ちる中、オレンジ色のボールを使用してのこのゲームで、3連敗中だった山形は勝利を収める。
スコアは1-0。
決勝点を挙げたのは堀之内だった。
前半の43分、ペナルティエリア内へのロングボールを相手守備陣が頭で跳ね返したところを、堀之内はペナルティアーク右脇で胸トラップ。直後に飛び込んできた相手を左足の切り返しでかわすと、『返す刀』で右足を伸ばしてボールを叩いた。シュートまでの一連のアクションは、後にチームメイトたちから「ロボットみたいだった」と評されることになる。
ある意味では堀之内らしい、動きの『硬さ』を伴って放たれたシュートはゴール左上へと向かい、サイドネットを揺らした。

ホームでの初出場、移籍後初先発・初ゴール・初のフル出場という『初物づくし』でこの試合は終わった。
次節では、出場停止となっていたボランチが戦線に復帰したが、堀之内はCBとしてフル出場。
以降、彼はレギュラーの座を手にし、ケガなどのコンディション不良を除き、先発出場を続けることとなる。

(第2回はこちら)

※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月10日配信)から一部を転載したものです。
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『ピース』 ナビスコ杯準決勝第2戦 関口訓充

2週間前の湘南ベルマーレ戦、1-2と逆転されたのちの同点弾を決めたのは柏木陽介。興梠慎三が頭で落としたボールを走り込んで右足でねじ込んでいる。

ゴールを陥れる上でアクセントとなっていたのは、興梠のヘディングのひとつ前、阿部勇樹からの縦パスを関口訓充がワンタッチでつないだプレーだった。
「阿部ちゃんからボールが来たときに慎三が動くのが見えて、阿部ちゃんのボールもちょっとバウンドしてたので右のアウトで流したという感じです」
本人はそう振り返っていた。
90分に生まれたあの同点ゴール後、アディショナルタイムは4分間あった。
その短い間にも、関口はドリブルで切り込み、チャンスを作った。エリア内右から、「シュートを打てればよかったんですけど、相手のスライディングも見えたので」クロスに切り替えたボールは、触れば1点というものだった。

1週間後の大宮アルディージャとのダービーマッチ。
再び途中出場した関口は、柏木からの「お返し」とでも言うべきアシストで4-0とするゴールを決める。
このゴールの数十秒前にはマルシオ・リシャルデスと共にしつこく相手を追ってボール奪取、ドリブルで左サイドを上がると、クロスから柏木のシュートへとつなぐ場面を作ってもいた。
湘南戦から連続で得点に絡む仕事をやってのけた関口。
柏木は彼の変化を感じたと語る。
「クニ君はそれまではまだ悩みながら、自信をもてないままにやっていたと思う。けど、最近は違う」

そして、川崎フロンターレとのナビスコカップ準決勝第2戦。
チームを国立競技場へ導く重要なアシストを、関口は記録した。
柏木は同僚の働きについて、こう語っている。
「途中から入るのはやっぱり難しいと思うし、気持ち的には嫌やと思うけど、そこをクニ君が割り切ってやってくれてることで、チームの得点につながってると思う」

関口本人は、あの場面を次のように振り返る。
「中は慎三のところしか見えてない状態でしたけど、勝負どころで落ち着いて蹴れました」
試合後には、仙台の元同僚たちからアシストを賞賛するメールが早々に入っていたと言う。
「時間が短いとわかっていて、自分の中で割り切って仕事ができてるし、ここだというときに仕掛けられてる。そのへんは、迷いなくやれてると思います。失敗しても、思い切ってチャレンジすることが、今の結果につながっていると思います」

少し前までは、「自分の武器は仕掛けだ」と思いつつも、「パスをつないだ方がいいんじゃないかという迷いもあった」と吐露する。
迷いを断ち切るキッカケのひとつが、湘南戦でゴールに絡めたことだったとも語る。
「あの試合も思い切って自分のプレーはできたと思うので、そういうところでひとつ吹っ切れた。何かしらのアクセントをチームに付けないといけないと思うし、ひとつのピースとして今は上手く機能してるんじゃないかと思います」

厳しい見方をすれば、ここ3戦の活躍で、関口は期待されるレベルに『ようやく』達したと言える。それくらい、彼への期待値は高かったのではないだろうか――。
そこに至るまでに長い時間がかかったことを、本人も苦笑いと共に振り返る。
「シーズンはじまってから、厳しい時期というか、自分の中でも辛い思いをしながらずっとやってきました。けど、腐らずに前向きに練習に取り組めたことが今につながってると思います」

試合後の彼の言葉には、チームのピースとして求められる役割を成し遂げた充実感があふれていた。
同時に、《ここがゴールではない》との思いも色濃くにじんでいた。
「良いときもあるし悪いときもある。それは常に起こることだと思うので、今の結果に満足せず、これからも謙虚に1日1日の練習をやっていきたいです」
彼と同じように考え、日々、大原で汗を流している選手はまだまだいる。
この日のアシストは、本人にとってはもちろん、彼ら『レギュラーメンバー以外』にとっても特別な価値のあるものだったはずだ。
(了)

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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第4回)

(第3回はこちら)

2013年現在、小林は東京都武蔵野市吉祥寺にある酒屋で働きながら、JFLでのプレーを続けている。
出勤は午前9時。まずは遠方の取引先からFAXで注文があった商品の梱包を行ない、宅急便で送る準備を整える。
それから店の掃除を行なって、10時に開店。
店を開けて以降は、吉祥寺界隈の居酒屋から注文があった品をチェックする。伝票と付き合わせながら倉庫から酒瓶を取り出し、配送用の軽ワゴン車に載せていく。注文分を積み終えたら車に乗り込み、配達へと向かう。届けた先では、カラになった酒瓶や業務用の生ビール樽などを回収してくるのも小林の仕事だ。
1時間あまりを掛けて配達を終えて店に戻った頃には、また新たな注文が舞い込んでいる。再び伝票と付き合わせての品出しから配送と、同じ手順を繰り返していく。

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「サザエさんに出てくる三河屋さん」

チームメイトに仕事内容を聞かれたときには、そう答えることに小林はしている。
それが最も手っ取り早く理解してもらえるからだ。
18時に店を上がると、自転車で6、7分の距離にある横河武蔵野FCの練習場へと向かい、19時からのトレーニングに備える。
仕事は月・水・木・金曜日の週4日。
一方、チームのスケジュールは月~金で練習をこなし、土曜日か日曜日に公式戦を行なうことがほとんどだ。そして大抵の場合、月曜日がオフとなる。
しかし、その日の小林には酒屋での仕事が待っている。
本当に何も予定がない純然たるオフと言える日は、1年のうちでも数えるほどしかない。
そんなふうにして過ごす横河でのシーズンも、今季で6度目となる。
浦和レッズから契約満了を言い渡された直後の2004年からの3シーズン、そして2011年からの3シーズン、小林は横河の青と黄色のユニフォームを着て戦ってきている。
現在の酒屋でのアルバイトは、レッズを離れて3シーズン目、2006年にはじめてお世話になった。現在はいわば「出戻り」の形だったが、店主は快く迎えてくれた。


酒屋で働きはじめる以前、小林はいくつかの職を転々としている。
最初についた仕事は、実家のある板橋区のラーメン屋でのアルバイト。求人情報誌で見つけたものだった。
月曜日から金曜日までの週5日、10時から17時まで、皿洗いにはじまり麺を茹でる係なども担当。アルバイト後、電車を乗り継いで三鷹駅まで行き、そこから歩いてグラウンドへと通っていた。
このラーメン店には1年1ヶ月ほど務めたのだが、練習場へと向かう際に乗り換えが2回必要だったため、よりアクセスの良い勤務先を探して辞することとした。
その後、テレフォンアポインターや工場での日雇い仕事などを挟み、新宿にあるイタリアンレストランでホール係の職を見つける。

アルバイトをしながらサッカーを続けるのは、苦ではなかったのか ―。
小林に尋ねると、「苦でも何でもなかったです」との答が返ってきた。
同期加入のプロ選手たちがアルバイトに精を出す必要もなく、サッカーに集中できる環境にあったことを、羨むこともなかったそうだ。
「バイトとかしたことなかったから、知らない世界というか、新鮮で楽しかったですよ」
小林はそう続けた。
何より、彼には明確な目標があった。

「もう一度プロ選手になって、サッカーをしたかった。レッズでは結局はデビューできないまま終わってしまっていたので、ひたすらそこを目指して必死でやってました。だから、辛いとか思う暇もなかったという感じですね」

横河武蔵野FCでは、遠征費はクラブが負担してくれたものの、出場給や勝利給をはじめとしてサッカーをプレーすることで貰えるお金はなかった。その意味で、純然たるアマチュアだったのだ。

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当然と言うべきか、JリーグとJFLにはレベルの差があった。
「サテライトでギリギリだった自分が、JFLでは『余裕をもって』まではいかないですけど、普通にプレーできた。そういう差はありました」
小林はそう振り返る。
しかし、そういった環境下でも、レッズでの2年間では圧倒的に不足していた試合経験を着実に積むことで、小林は少しずつ力を伸ばしていく。
監督の古矢は、小林が加入したシーズンの開幕戦から彼を先発で起用してくれたのだ。

「その中で、どうすればもう一度プロになれるかを考えたら、FWなので結果を出すしかない。そこだけにフォーカスしていましたね」

再びプロになるために自身の結果にこだわることは、ある意味では、小林のわがままとも言えた。
だが、幸いにもそれを許容してくれる環境が横河にはあったと、彼は感謝の念を込めて語る。
たとえば、4-4-2システムで2トップを組んだ相棒の村山浩史。
後にサポーターから『ミスター武蔵野』と呼ばれる存在となる村山は、レッズユースの先輩でもあった。村山は4歳上のため一緒にプレーしたことこそなかったが、村山のひとつ下の学年に小林の兄が
いたこともあり、昔から名前だけは知っている選手でもあった。
その村山は、レッズユースから青山学院大へと進み、小林がユースからトップチームへ昇格した2002年に横河電機の社員となり、横河武蔵野FCの前身たるサッカー部の一員となっていた。

横河での小林は、元Jリーガーとはいえ新人であることに変わりはなく、また、年齢もチーム内で下から2番目という若さだった。
そんな小林に対し、チームのエース格である村山をはじめ、先輩選手たちは一様に優しかった。

「ヨースケの自由にやっていいから」

試合前に彼らが掛けてくれるその言葉は、まだまだ経験の浅い小林の心をずいぶんとリラックスさせてくれるものだった。

試合の際のメンタル面でのサポート以外にも、小林がチームメイトの助力を感じた場面がある。
彼らは練習後毎日のようにシュート練習に付き合ってくれた。
GKの井上敦史もそのひとり。
コンサドーレ札幌から契約満了を言い渡された井上は、小林と同じく2003シーズン終了後のトライアウトを受けた末、横河の一員となっていた。6歳年上の彼は浦和市立高出身という近しさもあってか、小林のシュート練習の相手をいつでも務めてくれた。
もっとも、練習後に小林が「シュート練習やりましょうよ」と言い出すまでもなく、「やろうぜ!」と誰かが口にする雰囲気が、当たり前のものとしてチームにはあった。
19時にスタートするチーム練習は21時少し前に終わる。それからグラウンドの照明が落ちる21時20分まで、小林は仲間と共にシュート練習に没頭した。

そのグラウンド上には、練習参加したあの日に小林が感じたのと同じものが、彼に横河加入を決意させたサッカーへの情熱が、たしかに存在していた。
2004年、横河での1シーズン目。
前・後期それぞれ15ゲームずつ、全30試合のリーグ戦が行なわれ、小林は29試合に出場。12ゴールを記録した。

(第5回へつづく)



※写真1枚目は今年9月、筆者が撮影したものです。
※写真2枚目は2004年3月に埼玉スタジアムで行なわれた浦和レッズとの練習試合後のものを、サポーターの方からご提供いただきました。


※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月3日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『関口訓充が見せた光明』

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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第3回)

(第2回はこちら)


トライアウトで2ゴールを記録した小林陽介には、ふたつのクラブが興味を示していた。
J2モンテディオ山形とJFLの横河武蔵野FCだ。

できるならば、Jリーグチームへ。
当然、そう思っていた。
だから、《とりあえず、練習には参加してみよう》程度の気持ちで、小林は横河の練習グラウンドへと車で向かった。
埼玉県内で行なわれたモンテディオのセレクションを受けた翌日、12月11日のことだ。

東京都武蔵野市にある横河電機本社。道路を挟んで向かい側に、練習用のサッカー場兼ラグビー場はあった。5分も歩けばJR三鷹駅に至る場所だ。近隣には、オフィスや飲食店・マンションなどが建ち並んでいる。駅に近いエリアに特有の雑多な街並みの中で、ライトに照らし出されたそのグラウンドは「忽然」と現れた感があった。両ゴール裏、背の高い防球ネットに隣接する道路には、三鷹駅から吐き出されてきたであろう人たちの家路を急ぐ姿が絶えない。
土のグラウンドは、その日降っていた雨のためドロドロだった。グラウンド脇には更衣室と筋トレルームも併設されていたが、大原サッカー場の設備にくらべると、どうしても全てが一段ずつグレードが下がるように、小林の目には映った。
体のケアをしてくれるマッサーもいないという。

横河を率いる監督・古矢武士は33歳とまだ若かった。その古矢から、トライアウトでの自身への評価を聞かされた。
古矢はゴール前での自分の動き、常に裏を狙う姿勢を買ってくれていた。素直に嬉しかった。
チーム体制についても説明を受けた。
横河武蔵野FCの母体は横河電機サッカー部で、部員はみな横河電機(株)の社員だった。
しかし2003年からクラブチームへと運営体制が変更され、社員以外の人間も選手として受け入れるようになっていた。
小林が練習に参加した時点で、所属選手の半数以上は横河電機の社員だったが、他の選手たちはそれぞれが別の仕事をして生活を維持していた。そのため、チーム練習は各自が仕事を終えてから参加できる19時スタートに設定されていた。

小林に提示されたオファーは、あくまで選手としてのものであり、横河電機の社員にという待遇ではなかった。プレーするだけで生活が保証されるわけではなく、自身で別に仕事を探さなくてはなら
ない。

「他からオファーがあったら、早目に言ってくれな。ウチは最終手段でいいから」

古矢の、自分たちが提示する条件を卑下するような言葉に、小林は曖昧な相槌を打つことしかできなかった。

小林にとって最も重要だったのは、競技レベルでサッカーを続けることだった。
理想はJリーグクラブでのプレー。
しかし、もしそれが望めないのであれば、JFLは次善の選択と言えた。
金銭面の不安やハードの不備など、気になる点はあった。しかし、それ以上に小林が重きを置いたのは、一緒にプレーすることになるかもしれない選手たちのことだった。
《結構、なあなあの雰囲気でサッカーしてるのかな。もしそうなら、ちょっとイヤだな……》
そう思っていたのだ。
そして、午後7時にはじまった練習が終わる頃には、《できるなら、ここではやりたくないなぁ》という感想を、小林は心の奥底に抱いていた。

あまり良いとは言えない第一印象が変わるのは、翌日、練習参加2日目のことだ。
紅白戦をする段になった途端、選手たちの顔つきが変わったように感じられたのだ。そして、実際にゲームがはじまると、まずいプレーには選手間で意見が飛び交った。攻撃でも守備でも、より良いプレーを追究しようとする姿勢が随所にうかがえた。
サッカーに対する熱さ、真摯さが、土のグラウンド上にあった。
それは、小林が予想していた以上のものだった。

《ここでやるのも、いいかもな……》

そんな思いが、芽生えはじめた瞬間だった。



年も押し迫った12月27日、小林は浦和レッズのクラブ事務所へ出向いた。
お世話になった人たちへ最後の挨拶をするためだ。

まだ移籍先は決定していなかった。
山形のセレクションでは合格を勝ち取れず、横河からも正式なオファーは届いていない。年明け1月8日に予定されているシーズン2度目の合同トライアウトに再び参加し、また別のオファーが来るのを
待つしかないかと考えていた。
そのことを強化部長の中村修三に話すと、彼はその場ですぐに横河の強化担当者に電話を入れてくれた。
数分後、電話を終えた中村は傍らで待つ小林に告げた。
「横河、OKだって」

ハード面では恵まれているとは言えないチームだ。練習や試合の時間を確保できるような職場を探す困難も気になりはした。
しかし、横河の監督は自分を評価してくれていた。選手たちが持つサッカーへの情熱にも、あのときたしかに触れていた。

両親にも、友人にも、誰にも相談することなく、20歳の小林は横河でプレーすることを決意した。

(第4回へつづく)

この原稿はメールマガジン第9号(2013年9月26日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『ロブソン・ポンテと梅崎司


●WARRIORS IN RED ― リライト & こぼれ話 加藤順大
        


などです。

なお、『人生は上々だ 小林陽介 第4回』は10月3日配信のメールマガジン最新号に掲載しております。



テーマ:Jリーグ - ジャンル:スポーツ

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プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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