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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 千島徹

               vol.1千島徹(第4回)

               (第3回はこちら)


引退発表から約2週間後の2009年11月29日、愛媛FCはホーム最終戦を迎える。
バルバリッチ監督からは、前節終了後の早い段階でこう告げられていた。
「次がホームでの最後の試合だから、お前をメンバーに入れようと思っているんだが」
それが、バルバリッチの考える、ファン・サポーターへの監督としての義務だった。
しかし、千島の考える監督の義務は違っていた。

「僕のことはいいので、いつも通り、コンディションの良い選手を、監督が勝つために必要だと思う18人を選んでください」

そう伝えて、感謝の気持ちを抱きながら、監督の恩情を固辞した。

結局、ホーム最終戦で千島がベンチ入りすることはなかった。
サガン鳥栖とのゲームは0-0のまま終了。
まもなく、愛媛FCの全選手がピッチに整列する。膝下丈のベンチコートを羽織ったチームメイトたちが並ぶその前に、千島が立った。
黒のスーツにチームカラーであるオレンジ色のネクタイを締めた彼が、花束を手にスタンドマイクに向けて話しはじめる。

「この度は、自分なんかのために、このような貴重な時間を作っていただき、本当に感謝しております」
4400人あまりの観衆の拍手が、さざ波のように広がり、スタジアムを満たしていく。
「大変恐縮なんですが、せっかく作っていただいた貴重な時間ですので、このホーム・ニンジニアスタジアムで、みなさんと共有できる、これが最後の時間になりますので、いろんなことを噛みしめながら、大切に挨拶させてもらいたいと思います」

話すべきことの大筋だけは前夜のうちに決めてあった。その筋に沿って、その場で心の中に浮かんできた言葉を句切りながら、重ねていく。

「選手としては、大きなケガもあって、この約3年半のすべての時間が充実した時間とは、正直言えませんでしたが、いつでもチームメイトやサポーターのみなさんに励まされ、支えられ、温かく見守りつづけていただきました。
おかげで、今日この時期まで、プレーすることができました。そして何より、サッカーの好きな、サッカーの大好きな人間が集まるこの空間の、そのど真ん中にあるピッチの上でプレーできていたことは、本当に大切な時間でした」

話しながら、愛媛での様々なシーンが脳裏によみがえり、涙がこぼれそうになる。
《ヤバイ、泣いちゃダメだ》と言い聞かせ、所々で詰まりながらも、何とかスピーチを続けた。

「あと数日経ってしまえば、自然とプロサッカー選手でも、愛媛FCの選手でもいられなくなってしまいます。引退をして、来年には、地元埼玉に戻ることになりますが、愛媛FCのことは絶対に忘れません!」

スピーチを終えて列に戻った千島は、間もなくチームメイトたちに取り囲まれた。
ほとんどの選手はベンチコートを羽織ったままだったが、彼らのうち何人かはコートを脱ぎ捨て、中に着込んでいたTシャツをアピールする。紺色のTシャツの背には千島の番号である『7』が白くプリントされ、その上にチームメイトたちの名前がオレンジ色で載せられている。彼のセカンドキャリアでの夢を知るスタッフの提案により実現した、千島自身の手によってデザインされた引退記念Tシャツだ。
ケガばかりで、愛媛FCのためにどれだけの貢献ができたのかは疑問だった。にもかかわらず、チームは考えうる最大限の厚意をもって自分を送り出そうとしてくれている。そのことが本当にありがたかった。

チームメイトに揉みくちゃにされた後、千島の身体は数回、高々と宙を舞った。
やがてサポーターへの挨拶のため、場内一周がはじまる。
スタンドに沿ってスタジアムを回る間、同僚たちは入れ替わり立ち替わり千島のもとへとやってきては、ひと言ずつ声をかけてくれた。
特別なものではない。
「お疲れさま」という、ありふれたものだ。
だが、みんなが自分に声を掛けに来てくれる、その行為が千島にはひどく嬉しく、再び涙が落ちそうになった。

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2010年1月――。
埼玉の実家に戻ってきた千島は、まずはアパレル業界の情報を集めることからはじめた。ショップやブランドに務める知人たちに時間を割いてもらっては、話を聞いて回る。
そのひとつが『WACKO MARIA』。
元・横浜フリューゲルスのGK森敦彦と東京ヴェルディに所属していた石塚啓次が立ち上げたブランドだ。

話を聞くほどに、簡単ではないという印象ばかりが募った。
服飾の専門学校に通ったわけでもない、『元Jリーガー』という肩書きしか持たない千島に居場所を簡単に与えてくれるほどの余裕は、日本のアパレル業界にはすでになかった。未曾有の不況がこの業界に与えたダメージは、ことのほか大きいものだったのだ。
《まずはどこかのブランドやショップで経験を積み、ノウハウを学びつつ人脈を作りたい》
引退前はそんな青写真を描いていたが、現実はそうそう上手くはいかないことを痛感させられた。

貯金を切り崩す生活が数カ月続く。
実地での勉強を兼ね、かつて足繁く通っていた地元・川越のセレクトショップでスタッフとして働かせてもらうことにした。
とはいえ、扱いは正社員ではなくアルバイト。
週1回、時給850円で12時から20時までの立ち仕事だった。

そんな千島に手を差し伸べてくれたのは、サッカー界の人たちだ。
彼が人生で最初に入ったチームである少年団『川越ひまわりFC』の監督、浦和レッズハートフルクラブのスタッフ、かつてのチームメイトたち。
彼らが、それぞれのクラブ、スクールでの有料のコーチ業務を申し出てくれたのだ。
特に、川越ひまわりFCでのコーチ業は、立ち上げて間もないジュニアユースチームでの指導も含め週3回・数時間という内容を考えると、かなりの好待遇だった。
「そんなに貰えませんよ」
当初、千島はそう固持している。
しかし監督から「お前がプロになってくれたおかげで、ウチの少年団の名前は全国区になった。その御礼だと思ってくれ」と言われ、ありがたく申し出を受けることにした。
おかげで、生活は安定したものになった。

引退後しばらくの間は空欄が目立っていた1週間のスケジュールは、引退から5ヶ月ほど経った2010年5月の頃には埋まっていた。

月曜日:友人が運営するサッカースクールの手伝い
火曜日:駒場サブグランにて、レッズハートフルクラブのアシスタントコーチ
水曜日:セレクトショップでのアルバイト
木曜日:オフ
金・土・日曜日:川越ひまわりFCのコーチ

サッカーに拠ることで、千島の生計は成り立っていた。
しかし、彼の意識は、親友とブランドを立ち上げるという夢に向いていた。
足元にはサッカーがあり、視線の先には夢があった ― 。
その後、千島は両者の狭間で悩むことになる。

(第5回へつづく)


※ 写真は愛媛FC様のご厚意により転載させていただいています。

※ この原稿はメールマガジン第4号からの再掲載となります。
その他のコンテンツは

●大原ノートから『先輩から後輩へ』西澤代志也・岡本拓也

記憶に残るあの一言 福田正博

などです。


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プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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