スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第6回)

第5回はこちら



2008年、J2は新たにFC岐阜とロアッソ熊本という2クラブの参加を得て、全15チームへ拡大。それに伴い大会方式も変更。前年までのホーム&アウェイを2度ずつ行なう4回戦総当たり方式から、3回戦総当たりへと変わり、3月8日に開幕した。

スタートから首位を走ったのは『降格組』のサンフレッチェ広島。
ミハイロ・ペトロヴィッチが指揮するチームでは、柏木陽介・槙野智章をはじめとして、森脇良太・高萩洋次郎ら若手が躍動。森脇は6月に負傷して戦列を離れたものの、彼らが作ったチャンスをFWの佐藤寿人がきっちりとネットにおさめ、9月中にはJ2での優勝を決定。佐藤は得点王を獲得し、チームは第1節から最終45節まで首位の座を明けわたすことのない盤石の強さでJ1復帰を果たす。
もう1枚の昇格切符を手にしたのはモンテディオ山形。
監督は小林伸二、キャプテンは浦和から新潟を経て山形へと移籍していた宮沢克行。J2参加10年目にして悲願の昇格を成し遂げる。
新たにJ2参入を果たしたFC岐阜とロアッソ熊本は、全15チーム中13位と12位という成績でシーズンを終えた。
熊本に所属する小林陽介の出場は3試合、151分だった。

「正直もう少し出られるかなと思ってたんですけど、なかなかメンバーにも入れませんでした。それでも諦めず、チャンスはあると思ってひたすら練習に励んでいまいしたね」
小林はそう振り返る。
出番が巡ってきたのはシーズンも終盤に入っての第37節、15,588人もの観衆を集めて行なわれた、ホームでの横浜FC戦。
0-0で迎えた後半開始から、小林はピッチに立つ。
2002年にレッズトップチームの一員となってから6年半以上もの月日をかけ、ようやく迎えたJリーグデビューの瞬間だった。
この横浜戦は終了間際に熊本がゴールをもぎ取り、1-0でシーズン8勝目を記録。
つづく第38節、39節と小林は連続出場を果たした。
しかし、その後は天皇杯での途中出場とリーグ戦での一度ベンチ入りをしただけで、シーズン末にはクラブから契約満了を言い渡されてしまう。

「熊本では、街のヒーローみたいな扱いをしてくれましたし、Jリーグでプレーすることも叶えさせてもらった。そういう特別な経験をさせてくれたチームだったので、できれば長くいたかったんですけどね……」

そう口にして、小林は苦笑いを浮かべる。
レッズ時代につづく、再びの契約満了。
2度目とはいえ、慣れるような類いのものではない。やはり暗い気持ちになってしまうことは、抑えきれなかった。
「レッズのときは2年でクビになって、熊本でも同じだったので、宣告されたときは『また2年でダメか』という感じでした」

ただし、試合に出場することのないまま契約満了を迎えたレッズ時代とは異なり、このときの彼はすでにJFLで数多くの実戦をこなしてきている選手だった。
当然、彼のプレーを知る関係者は多く、そのうちの少なからずが小林に興味を持ってくれていた―― 12月16日、大阪、長居陸上競技場で開催されたJリーグ合同トライアウトに小林は自身3度目の参加をするものの、実はトライアウト以前に非公式なオファーを受けていたのだ。
北信越1部リーグに所属する、松本山雅FCからだった。
当時、松本山雅の監督を務めていたのが吉澤英生。
松本の監督に就任する以前、吉澤はHonda FCやFC琉球を率いてJFLを戦っており、その際に対戦相手として出会った小林のプレーを買っていた。熊本を指揮する池谷友良とも旧知の仲で、J2に昇格したチームにあって小林が出番のない状況にあることを知ると、池谷に彼の期限付き移籍を持ちかけたこともあったほどだった。

長居でのトライアウト後、小林は吉澤と面談。その後、電話でのやり取りを重ねた末、小林は松本と契約を結ぶこととなる。
提示されたそれは、チーム内ではまだ数少ないプロ契約だった。

「それまでは、『松本山雅』というチームの名前は聞いたことはありましたけど、どんなチームかは知らなかったし、長野県に行ったこともなかった。話を貰ってからクラブのホームページをのぞいてみたり、ネットでいろいろと検索してみたんです。そしたら、『サポーターが熱い』と評判になってた。スタジアムもサッカー専用ですごく立派でしたし、『これは面白そうなチームだ』なとワクワクしました」

ロアッソ熊本から松本山雅へ。
J2から、JFLのさらに下、地域リーグへの移籍。

にもかかわらず、小林の胸の内には新天地での期待と希望が生まれはじめる。
それと同時に、調べれば調べるほど、関係者に話を聞けば聞くほど、自分に求められていることは「ワクワク」という言葉で表現していいほど軽いものではないとの理解も進んでいった。
「地域リーグは試合数が少ないぶん、1試合の重みが違いますし、JFLへ上がるための全国社会人トーナメントや地域決勝大会は5連戦、3連戦というスケジュールで、自分にとって未知の世界で……。JFLへの道は想像していた以上に険しいんだなと思い知らされました。山雅はそれまでの2年間でJFL入りを目指しながら失敗してもいたので、『今回こそ絶対に上がるんだ』という気持ちが強くて、そのために僕へ掛けてくれる期待もすごく大きかったんですよね」
それは、かつて感じたことのないほどのプレッシャーでもあった。

浦和レッズを契約満了となって横河武蔵野FC入りを決めたときも、横河から熊本への移籍に際しても、小林は自分自身で選択をなし、周囲にはほとんど事後報告で済ませていた。
しかし、この松本への移籍の際には、妻はもちろんのこと自分の両親と妻の両親、そして、かつて所属したチームでお世話になり、信頼を置いていたトレーナーにも意見を求めている。

悩み抜いた末に、小林は決断をくだす。
「絶対にJFLに昇格しないといけない。それを最大の目標として、自分のサッカー人生を賭けてみよう、と。並々ならぬ覚悟を持って松本に行くことにしました」

そして山雅へ移籍した2009年の10月、数奇な運命の末に、彼は浦和レッズとの再会を果たすこととなる。



第7回はこちら


※この原稿はメールマガジン第13号(2013年10月24日配信)から一部を転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 1 阪野豊史

●大原ノートから 2 山田直輝

●あなたの『?』に答えます
        
などです。
下記バナーから、登録した月の末日まで無料で試し読みが可能となっています。


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

メルマガはじめました!
プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

Twitter
アクセスカウンター
サッカー以外の記事執筆も承っております。下記からご連絡下されば幸いです。

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。