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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第4回)

(第3回はこちら)

2013年現在、小林は東京都武蔵野市吉祥寺にある酒屋で働きながら、JFLでのプレーを続けている。
出勤は午前9時。まずは遠方の取引先からFAXで注文があった商品の梱包を行ない、宅急便で送る準備を整える。
それから店の掃除を行なって、10時に開店。
店を開けて以降は、吉祥寺界隈の居酒屋から注文があった品をチェックする。伝票と付き合わせながら倉庫から酒瓶を取り出し、配送用の軽ワゴン車に載せていく。注文分を積み終えたら車に乗り込み、配達へと向かう。届けた先では、カラになった酒瓶や業務用の生ビール樽などを回収してくるのも小林の仕事だ。
1時間あまりを掛けて配達を終えて店に戻った頃には、また新たな注文が舞い込んでいる。再び伝票と付き合わせての品出しから配送と、同じ手順を繰り返していく。

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「サザエさんに出てくる三河屋さん」

チームメイトに仕事内容を聞かれたときには、そう答えることに小林はしている。
それが最も手っ取り早く理解してもらえるからだ。
18時に店を上がると、自転車で6、7分の距離にある横河武蔵野FCの練習場へと向かい、19時からのトレーニングに備える。
仕事は月・水・木・金曜日の週4日。
一方、チームのスケジュールは月~金で練習をこなし、土曜日か日曜日に公式戦を行なうことがほとんどだ。そして大抵の場合、月曜日がオフとなる。
しかし、その日の小林には酒屋での仕事が待っている。
本当に何も予定がない純然たるオフと言える日は、1年のうちでも数えるほどしかない。
そんなふうにして過ごす横河でのシーズンも、今季で6度目となる。
浦和レッズから契約満了を言い渡された直後の2004年からの3シーズン、そして2011年からの3シーズン、小林は横河の青と黄色のユニフォームを着て戦ってきている。
現在の酒屋でのアルバイトは、レッズを離れて3シーズン目、2006年にはじめてお世話になった。現在はいわば「出戻り」の形だったが、店主は快く迎えてくれた。


酒屋で働きはじめる以前、小林はいくつかの職を転々としている。
最初についた仕事は、実家のある板橋区のラーメン屋でのアルバイト。求人情報誌で見つけたものだった。
月曜日から金曜日までの週5日、10時から17時まで、皿洗いにはじまり麺を茹でる係なども担当。アルバイト後、電車を乗り継いで三鷹駅まで行き、そこから歩いてグラウンドへと通っていた。
このラーメン店には1年1ヶ月ほど務めたのだが、練習場へと向かう際に乗り換えが2回必要だったため、よりアクセスの良い勤務先を探して辞することとした。
その後、テレフォンアポインターや工場での日雇い仕事などを挟み、新宿にあるイタリアンレストランでホール係の職を見つける。

アルバイトをしながらサッカーを続けるのは、苦ではなかったのか ―。
小林に尋ねると、「苦でも何でもなかったです」との答が返ってきた。
同期加入のプロ選手たちがアルバイトに精を出す必要もなく、サッカーに集中できる環境にあったことを、羨むこともなかったそうだ。
「バイトとかしたことなかったから、知らない世界というか、新鮮で楽しかったですよ」
小林はそう続けた。
何より、彼には明確な目標があった。

「もう一度プロ選手になって、サッカーをしたかった。レッズでは結局はデビューできないまま終わってしまっていたので、ひたすらそこを目指して必死でやってました。だから、辛いとか思う暇もなかったという感じですね」

横河武蔵野FCでは、遠征費はクラブが負担してくれたものの、出場給や勝利給をはじめとしてサッカーをプレーすることで貰えるお金はなかった。その意味で、純然たるアマチュアだったのだ。

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当然と言うべきか、JリーグとJFLにはレベルの差があった。
「サテライトでギリギリだった自分が、JFLでは『余裕をもって』まではいかないですけど、普通にプレーできた。そういう差はありました」
小林はそう振り返る。
しかし、そういった環境下でも、レッズでの2年間では圧倒的に不足していた試合経験を着実に積むことで、小林は少しずつ力を伸ばしていく。
監督の古矢は、小林が加入したシーズンの開幕戦から彼を先発で起用してくれたのだ。

「その中で、どうすればもう一度プロになれるかを考えたら、FWなので結果を出すしかない。そこだけにフォーカスしていましたね」

再びプロになるために自身の結果にこだわることは、ある意味では、小林のわがままとも言えた。
だが、幸いにもそれを許容してくれる環境が横河にはあったと、彼は感謝の念を込めて語る。
たとえば、4-4-2システムで2トップを組んだ相棒の村山浩史。
後にサポーターから『ミスター武蔵野』と呼ばれる存在となる村山は、レッズユースの先輩でもあった。村山は4歳上のため一緒にプレーしたことこそなかったが、村山のひとつ下の学年に小林の兄が
いたこともあり、昔から名前だけは知っている選手でもあった。
その村山は、レッズユースから青山学院大へと進み、小林がユースからトップチームへ昇格した2002年に横河電機の社員となり、横河武蔵野FCの前身たるサッカー部の一員となっていた。

横河での小林は、元Jリーガーとはいえ新人であることに変わりはなく、また、年齢もチーム内で下から2番目という若さだった。
そんな小林に対し、チームのエース格である村山をはじめ、先輩選手たちは一様に優しかった。

「ヨースケの自由にやっていいから」

試合前に彼らが掛けてくれるその言葉は、まだまだ経験の浅い小林の心をずいぶんとリラックスさせてくれるものだった。

試合の際のメンタル面でのサポート以外にも、小林がチームメイトの助力を感じた場面がある。
彼らは練習後毎日のようにシュート練習に付き合ってくれた。
GKの井上敦史もそのひとり。
コンサドーレ札幌から契約満了を言い渡された井上は、小林と同じく2003シーズン終了後のトライアウトを受けた末、横河の一員となっていた。6歳年上の彼は浦和市立高出身という近しさもあってか、小林のシュート練習の相手をいつでも務めてくれた。
もっとも、練習後に小林が「シュート練習やりましょうよ」と言い出すまでもなく、「やろうぜ!」と誰かが口にする雰囲気が、当たり前のものとしてチームにはあった。
19時にスタートするチーム練習は21時少し前に終わる。それからグラウンドの照明が落ちる21時20分まで、小林は仲間と共にシュート練習に没頭した。

そのグラウンド上には、練習参加したあの日に小林が感じたのと同じものが、彼に横河加入を決意させたサッカーへの情熱が、たしかに存在していた。
2004年、横河での1シーズン目。
前・後期それぞれ15ゲームずつ、全30試合のリーグ戦が行なわれ、小林は29試合に出場。12ゴールを記録した。

(第5回へつづく)



※写真1枚目は今年9月、筆者が撮影したものです。
※写真2枚目は2004年3月に埼玉スタジアムで行なわれた浦和レッズとの練習試合後のものを、サポーターの方からご提供いただきました。


※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月3日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『関口訓充が見せた光明』

●あなたの『?』に答えます 『濱田水輝の期限付き移籍について』
        
●『記憶に残るあの一言』

などです。
下記バナーから、当月無料で試し読みが可能となっています。


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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第3回)

(第2回はこちら)


トライアウトで2ゴールを記録した小林陽介には、ふたつのクラブが興味を示していた。
J2モンテディオ山形とJFLの横河武蔵野FCだ。

できるならば、Jリーグチームへ。
当然、そう思っていた。
だから、《とりあえず、練習には参加してみよう》程度の気持ちで、小林は横河の練習グラウンドへと車で向かった。
埼玉県内で行なわれたモンテディオのセレクションを受けた翌日、12月11日のことだ。

東京都武蔵野市にある横河電機本社。道路を挟んで向かい側に、練習用のサッカー場兼ラグビー場はあった。5分も歩けばJR三鷹駅に至る場所だ。近隣には、オフィスや飲食店・マンションなどが建ち並んでいる。駅に近いエリアに特有の雑多な街並みの中で、ライトに照らし出されたそのグラウンドは「忽然」と現れた感があった。両ゴール裏、背の高い防球ネットに隣接する道路には、三鷹駅から吐き出されてきたであろう人たちの家路を急ぐ姿が絶えない。
土のグラウンドは、その日降っていた雨のためドロドロだった。グラウンド脇には更衣室と筋トレルームも併設されていたが、大原サッカー場の設備にくらべると、どうしても全てが一段ずつグレードが下がるように、小林の目には映った。
体のケアをしてくれるマッサーもいないという。

横河を率いる監督・古矢武士は33歳とまだ若かった。その古矢から、トライアウトでの自身への評価を聞かされた。
古矢はゴール前での自分の動き、常に裏を狙う姿勢を買ってくれていた。素直に嬉しかった。
チーム体制についても説明を受けた。
横河武蔵野FCの母体は横河電機サッカー部で、部員はみな横河電機(株)の社員だった。
しかし2003年からクラブチームへと運営体制が変更され、社員以外の人間も選手として受け入れるようになっていた。
小林が練習に参加した時点で、所属選手の半数以上は横河電機の社員だったが、他の選手たちはそれぞれが別の仕事をして生活を維持していた。そのため、チーム練習は各自が仕事を終えてから参加できる19時スタートに設定されていた。

小林に提示されたオファーは、あくまで選手としてのものであり、横河電機の社員にという待遇ではなかった。プレーするだけで生活が保証されるわけではなく、自身で別に仕事を探さなくてはなら
ない。

「他からオファーがあったら、早目に言ってくれな。ウチは最終手段でいいから」

古矢の、自分たちが提示する条件を卑下するような言葉に、小林は曖昧な相槌を打つことしかできなかった。

小林にとって最も重要だったのは、競技レベルでサッカーを続けることだった。
理想はJリーグクラブでのプレー。
しかし、もしそれが望めないのであれば、JFLは次善の選択と言えた。
金銭面の不安やハードの不備など、気になる点はあった。しかし、それ以上に小林が重きを置いたのは、一緒にプレーすることになるかもしれない選手たちのことだった。
《結構、なあなあの雰囲気でサッカーしてるのかな。もしそうなら、ちょっとイヤだな……》
そう思っていたのだ。
そして、午後7時にはじまった練習が終わる頃には、《できるなら、ここではやりたくないなぁ》という感想を、小林は心の奥底に抱いていた。

あまり良いとは言えない第一印象が変わるのは、翌日、練習参加2日目のことだ。
紅白戦をする段になった途端、選手たちの顔つきが変わったように感じられたのだ。そして、実際にゲームがはじまると、まずいプレーには選手間で意見が飛び交った。攻撃でも守備でも、より良いプレーを追究しようとする姿勢が随所にうかがえた。
サッカーに対する熱さ、真摯さが、土のグラウンド上にあった。
それは、小林が予想していた以上のものだった。

《ここでやるのも、いいかもな……》

そんな思いが、芽生えはじめた瞬間だった。



年も押し迫った12月27日、小林は浦和レッズのクラブ事務所へ出向いた。
お世話になった人たちへ最後の挨拶をするためだ。

まだ移籍先は決定していなかった。
山形のセレクションでは合格を勝ち取れず、横河からも正式なオファーは届いていない。年明け1月8日に予定されているシーズン2度目の合同トライアウトに再び参加し、また別のオファーが来るのを
待つしかないかと考えていた。
そのことを強化部長の中村修三に話すと、彼はその場ですぐに横河の強化担当者に電話を入れてくれた。
数分後、電話を終えた中村は傍らで待つ小林に告げた。
「横河、OKだって」

ハード面では恵まれているとは言えないチームだ。練習や試合の時間を確保できるような職場を探す困難も気になりはした。
しかし、横河の監督は自分を評価してくれていた。選手たちが持つサッカーへの情熱にも、あのときたしかに触れていた。

両親にも、友人にも、誰にも相談することなく、20歳の小林は横河でプレーすることを決意した。

(第4回へつづく)

この原稿はメールマガジン第9号(2013年9月26日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『ロブソン・ポンテと梅崎司


●WARRIORS IN RED ― リライト & こぼれ話 加藤順大
        


などです。

なお、『人生は上々だ 小林陽介 第4回』は10月3日配信のメールマガジン最新号に掲載しております。



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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第2回)

    (第1回はこちら)


2003年12月9日、Jリーグ合同トライアウト。
センターサークルに立った小林は、《点を取ろう。自分を信じて、思い切って行こう》と、再度心の中でつぶやいた。

黄色いビブスのC対青いビブスのD。
先制は小林たちだった。
8分、ペナルティアークに立った小林に縦パスが入る。ほぼ同時に、青いビブスを着けた味方が、自分の外側を駆け上がってくるのが視界に入った。
DFを背負った小林は、ターンしつつ右足のインサイドでワンタッチして自分の斜め後ろ、ペナルティエリア内右へとボールを流した。青いビブスの『40』が走りこみ、小林に付いていたDFが追走してファウル。PKを獲得する。

その瞬間、ちょうど1ヶ月前の試合が小林の脳裏によみがえっていた。
熊谷で行なわれたベガルタ仙台とのサテライトリーグ最終戦、小林はPKを外していた。インステップで思いきり蹴るのが彼のスタイルだったが、この仙台戦の際には、なぜか弱気になり、右足インサイドで置きにいってしまい、結果、GKに止められていた。試合は、2-3で敗れている。

PKを得た『40』番の選手はペナルティマークへと向かわず、後方の自分のポジションに戻っていった。
《・・・誰が蹴るんだろう?》
そう思っていると、「コバ!」と声がした。
それが自分を呼ぶものだと理解するのに、一瞬だけ間があった。
声の主は、大宮アルディージャの大塚真司。
Dチーム内でも年長の彼に目線でPKを蹴るよう促され、小林はペナルティマークに向かった。

サテライトの試合でPKを外したときから、次にチャンスが巡ってきたら思いきり蹴り込むと決めていた。
自分の手でボールをセットし直し、助走を取ってから、右足のインステップでゴール左を狙う。
ボールは、ゴール左上のネットを突き刺した。

その後、彼らは17分に同点弾を許す。
PKでのゴールで、《点を取ろう》という最低限の目標は果たしたと思っていた小林は、1-1とされ、《もう1点取る!》と思い直す。

試合は一進一退の攻防で続いた。
パスを出してくれるか不安だった湘南のサントスも小林のパスにリターンで応えるなど、チームプレーを重視してくれた。
彼に限らず、トライアウトだからといって、わがままなプレーに走る選手はいなかった。
そして26分、カウンターのチャンスが青チームに訪れる。
中盤右サイドにボールが渡ると、小林は早い動き出しでパスを呼び込む。
ペナルティアーク右脇付近でワンタッチしエリア内へ侵入し、2タッチ目に右足インステップでシュート。
トラップの瞬間、心の中で「決めるっ!」と、小林は叫んでいた。
シュートの瞬間は無心だった。
ボールは、GKの正面に向かったが幸いにも股間を抜けてネットを揺らす。
《気持ちが伝わったのかな》と思わされるゴールだった。
レッズでは、練習中のゲームも含め、絶好機に限ってシュートを外すことが多かっただけに、このゴールには感慨もあった。

開始から35分が経過し、2-1のまま試合終了のホイッスルを聞く。
《最低限のアピールはできたかな》との手応えがあった。
この日1日だけのチームメイトが集まり、互いに健闘をたたえ合う。小林に対しては、皆が口々に「ナイシュー!」と賞賛してくれる。
それが嬉しかった。

グラウンドでは、引き続きE対F、G対Hの試合が順に行なわれていった。
その間に味の素スタジアム内の風呂に入り、着替えも済ませる。
携帯電話を見ると、着信があり、留守番電話のマークも点灯していた。確認してみると、レッズ強化部スタッフから「すぐに電話をくれ」とメッセージが吹き込まれていた。

《もしかして―》

淡い期待を抱きつつ、折り返し電話を入れる。
JFLの横河武蔵野FCから練習参加のオファーがあったと報された。さらに数十分後には、J2モンテディオ山形からも、独自に開催するセレクションに参加してもらいたいとの申し出があったことが伝えられた。

まだ契約を勝ち取ったわけではない。

《でも、自分を評価してくれる人がいる》

レッズから契約満了を言い渡されてから2週間あまりの間で、20歳の青年の身に舞い降りた最良の出来事だった。

(第3回はこちら)

この原稿はメールマガジン第7号(2013年9月19日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『矢島慎也・野崎雅也とJリーグの20年』『2015年からの改革を前に今、Jリーグがすべきこと』

●記憶に残るあの一言
        
●あなたの『?』に答えます

などです。

なお、『人生は上々だ 小林陽介 第3回』は9月26日配信のメールマガジン最新号に掲載しております。



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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介 第1回

大原サッカー場から車で数分の距離にある、浦和レッズの選手寮『吾亦紅』。
2003年12月9日、小林陽介は7時半を少し過ぎた頃、寮の自室で起床した。
その日使うスパイクやトレーニングウェア、タオルなどは前夜のうちにバッグに詰め込んであった。黒いバッグの表面には、「33」という数字が目立つ大きさで白くプリントされている。
そのバッグは前年の2002年、彼がレッズでの1年目にチームから支給されたものだ。
部屋にはもうひとつ、そのシーズンの背番号である「24」がプリントされた同型のバッグもあった。
あえて、彼は「33」の方を持っていくことにした――。

1年目の背番号が決まったとき、小林は《33って数字に不思議な縁があるな》と感じていた。
小学校1年のときに生まれて初めて入ったサッカーチームで付けた背番号と同じだったからだ。以来、彼は「33」をラッキーナンバーとして捉えるようになっていた。

『33』のバッグを肩から提げて部屋を出ると、洗面所にいた加藤順大と中川直樹に声をかけられた。
「陽介君、がんばってね」
ふたりとも、小林にとってはユース時代の後輩にあたる。君付けで呼ぶのも敬語を使わないのも、ユースチームの雰囲気で、それがプロになってからも継続されていた。
8時に寮を出発した彼が車で向かった先は味の素スタジアム。
Jリーグ合同トライアウトに参加するためだった。


小林が翌シーズンの契約がないことを告げられたのは、トライアウトの2週間あまり前。リーグ最終節の5日前2003年11月24日。埼玉スタジアム第3グラウンドでの練習後に強化部スタッフから声をかけられ、スタジアム内の一室で知らされた。
悲しさ、悔しさ、寂しさ。
ネガティブな感情ばかりが湧いてきて、今後の身の振り方に思いを巡らせる余裕はなかった。わかっていたのは、まだサッカーを諦めることはできそうにもない、ということくらいだった。
翌日の夜、何とか気持ちの整理がついた。
《トライアウトに賭けよう。最後まで悪あがきしてやろう》
友人たちに自分に来年の契約がないこと、そして今の自分の決心を伝えるメールを送った。



朝8時に寮を出発し、10時には味の素スタジアムに到着。途中で寄ったコンビニエンスストアで買ったおにぎりと焼きそばを、駐車場に停めた車の中で食べ、受付がはじまる11時まで時間を潰した。
味の素スタジアム内で参加選手へのオリエンテーションがスタートしたのは12時。
参加総数は83名。AからHまでの8チームに分けられ、A対B、C対D、E対F、G対Hの4試合が行なわれる。
オリエンテーションが行われた会議室のような部屋の前方にはホワイトボードが置かれてあり、そこには『参加選手の皆様へ』と題して、『A、D、E、Fチームにポジションの空きがあります』と大きく記されてあった。

小林が割り振られたのはDチーム。
メンバー表の中に、『城定信次』の4文字を見つけ、少しホッとする。
城定は前年の2002シーズン後半、出場機会を求めてJ2アルビレックス新潟へと期限付き移籍。2003シーズンは浦和へ復帰したものの、出番はないまま。小林と同様に契約満了を言い渡され、このトライアウトに参加していた。
4-4-2システムで2トップを組む相棒となるのは、湘南ベルマーレのサントス。
《(レッズの)エメルソンみたいに、自分で行ってあんまりパスくれないタイプだったら、ちょっと嫌だな》
そんな不安が頭の隅をよぎりもしたが、それを振り払うように《とにかく、点を取ろう。自分を信じて、思い切って行こう》と心の中で念じ続けた。

小林の出番となるC対Dのゲームは2試合目。控え室でストレッチを済ませた後、A対Bの第1試合がキックオフされた13時15分には、スタジアムに隣接する試合会場『アミノバイタルフィールド』のゴール裏スペースへと向かいウォーミングアップをはじめる。反対側のゴール裏では、対戦相手となるCチームの選手たちが、同じように身体を動かしていた。
クリーム色のレッズの練習着の上から、『36』と白くプリントされた青いビブスを着け、小林はランニング、ショートパス、ダッシュといつもの手順を踏んでいく。そうやって身体を温めながら、頭の中では、事前に紙に書き出しておいた注意事項を何度も思い返し、自分に言い聞かせていた。

『ボールに対し一歩でも寄れ』
『トラップは足元に止めないで、動きながら』
『コーチング』
『First thinkingは裏に出る』

そのほとんどは、小林のレッズでのプロ2年間を指揮していたハンス・オフトから口酸っぱく言われ続けてきたことだった。

14時10分、C対Dの試合がはじまる。
Dチームはキックオフを取り、小林は湘南のサントスと共にセンターサークルに入った。
視察に訪れているJ1、J2、JFLの各クラブ関係者は100名に近い。
グラウンドには陽光が降り注いでいたが、少しだけ風が強かった。
試合時間は35分。
それが、小林に与えられた『次』を探すための時間だった。

(第2回はこちら)

この原稿はメールマガジン第7号(2013年9月12日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『GKのポジション争い』

●WARRIORS IN RED ― リライト 田中達也
        
●こぼれ話 田中達也と長谷部誠

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なお、『人生は上々だ 小林陽介 第2回』は本日配信したメールマガジン最新号に掲載しております。



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人生は上々だ かつての『レッズ』に会いに行く 千島徹(Additional Time)

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2009年11月、千島徹から電話をもらった。
「ご無沙汰してます。今、大丈夫すか?実はご報告があって…」
彼から引退の決意を知らされた。たしか、愛媛FCの公式HP上で発表がなされる2日ほど前だったと記憶している。

最初に思ったのは、《せっかくケガが治ったのだから、もう少しプレーできるのでは》ということ。
いや、正確に言えば、もう少しプレーできるのではと思ったというよりも、《もう少しプレーしている千島君を見ていたい》という筆者の一方的な願望だった。

とはいえ、彼のセカンドキャリアでの夢も聞かされていたし、彼が愛媛にいる間、定点観測的に数回現地を訪れてリハビリしているところも見知っていた。
無理は言えないなと思った。
だから、「そっか…、残念だけど、お疲れさま」と伝えた。

彼と再会したのは、件の電話をもらって5ヶ月ほど経った頃だった。
彼の方から「ちょっと聞いてもらいたい話があるんですけど」との連絡があり、大宮駅の待ち合わせスポット『まめの木』のオブジェ前で落ち合い、南銀座へ向かった。
入った居酒屋で僕はビールを、千島はコーラを飲みながら、話をした。
内容は、セカンドキャリアについて。

当連載でも触れていた通り、当時のアパレル業界は素人の参入を簡単に許してくれるような状況ではなかった。
そして、「やっぱり、サッカーからまるっきり離れてしまうのも、嫌だなって気持ちがあるんですよね」との思いを聞かされた。

サッカーとアパレル業を天秤にかけるような質問をいくつか投げかけた末、感じたことは、千島の身体の中にはサッカーへの愛情が離れがたいものとして根付いているということだった。
だから、サッカー界でやれることがあるかどうか、まずはそれを探してみた方がいいのではと、助言らしきものを伝えた。
千島からは後日、指導という形でサッカーに関わる仕事を見つけることができたとの報告をもらい、ほっとしたことをよく覚えている。

その後は、年に1回ぐらいは顔を合わせる関係が続いていた。
ただし、引退のことについて、根堀り葉堀り聞くのは今回がはじめてだった。

僕自身は、千島に対して「ケガにさえ泣かされなければ…」という思いがずっとあった。
だが、本人の認識は少し違うようだ。
ケガはたしかに辛いことだったが、そのおかげで学べたこともあったと千島は言う。そして、それ以外の面では、良いこともたくさんあったプロ生活だったと彼は考えている。
レッズでは、小学生時代から憧れていた福田正博と同じ時間を過ごすことができた。福田から直接話を聞き、学んだこともたくさんあった。デビュー戦では、その福田と同じピッチに立ち戦うことができた。

愛媛でも、楽しいことはたくさんあったと彼は言う。
中でも彼が忘れられないのは、2006年8月、移籍して最初の関東遠征となった国立競技場での東京ヴェルディとの一戦。
この日、国立のアウェイ側ゴール裏には、愛媛のオレンジだけではなく、レッズの赤もあった。千島を応援しようと、浦和サポーターがレッズ時代のレプリカを身に着けて応援に駆けつけてくれたのだ。
「オレンジと赤が交ざったあの光景をウォーミングアップのときに見て、泣きそうになりました。本当に感動的な光景でした」
千島はそう語る。
それは、誰もが味わえるものではない特別な景色だった。
「A代表にも入ってないし、成功したとは言えないかもしれないけど、自分としてはプロでの10年間は充実した時間でした」
千島はそう振り返っていた。

千島は今を、充実していると言う。
その『第2のサッカー人生』が、これからも変わらず喜びに充ちたものであってほしいと思う。

(了)

なお、この原稿はメールマガジン第6号(2013年9月5日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『新潟戦の意義、阿部勇樹のキャプテンシー』


●『世代交代 ― 79年組と調子乗り世代』(第2回)第1章『1979』

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プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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