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『ピース』 ナビスコ杯準決勝第2戦 関口訓充

2週間前の湘南ベルマーレ戦、1-2と逆転されたのちの同点弾を決めたのは柏木陽介。興梠慎三が頭で落としたボールを走り込んで右足でねじ込んでいる。

ゴールを陥れる上でアクセントとなっていたのは、興梠のヘディングのひとつ前、阿部勇樹からの縦パスを関口訓充がワンタッチでつないだプレーだった。
「阿部ちゃんからボールが来たときに慎三が動くのが見えて、阿部ちゃんのボールもちょっとバウンドしてたので右のアウトで流したという感じです」
本人はそう振り返っていた。
90分に生まれたあの同点ゴール後、アディショナルタイムは4分間あった。
その短い間にも、関口はドリブルで切り込み、チャンスを作った。エリア内右から、「シュートを打てればよかったんですけど、相手のスライディングも見えたので」クロスに切り替えたボールは、触れば1点というものだった。

1週間後の大宮アルディージャとのダービーマッチ。
再び途中出場した関口は、柏木からの「お返し」とでも言うべきアシストで4-0とするゴールを決める。
このゴールの数十秒前にはマルシオ・リシャルデスと共にしつこく相手を追ってボール奪取、ドリブルで左サイドを上がると、クロスから柏木のシュートへとつなぐ場面を作ってもいた。
湘南戦から連続で得点に絡む仕事をやってのけた関口。
柏木は彼の変化を感じたと語る。
「クニ君はそれまではまだ悩みながら、自信をもてないままにやっていたと思う。けど、最近は違う」

そして、川崎フロンターレとのナビスコカップ準決勝第2戦。
チームを国立競技場へ導く重要なアシストを、関口は記録した。
柏木は同僚の働きについて、こう語っている。
「途中から入るのはやっぱり難しいと思うし、気持ち的には嫌やと思うけど、そこをクニ君が割り切ってやってくれてることで、チームの得点につながってると思う」

関口本人は、あの場面を次のように振り返る。
「中は慎三のところしか見えてない状態でしたけど、勝負どころで落ち着いて蹴れました」
試合後には、仙台の元同僚たちからアシストを賞賛するメールが早々に入っていたと言う。
「時間が短いとわかっていて、自分の中で割り切って仕事ができてるし、ここだというときに仕掛けられてる。そのへんは、迷いなくやれてると思います。失敗しても、思い切ってチャレンジすることが、今の結果につながっていると思います」

少し前までは、「自分の武器は仕掛けだ」と思いつつも、「パスをつないだ方がいいんじゃないかという迷いもあった」と吐露する。
迷いを断ち切るキッカケのひとつが、湘南戦でゴールに絡めたことだったとも語る。
「あの試合も思い切って自分のプレーはできたと思うので、そういうところでひとつ吹っ切れた。何かしらのアクセントをチームに付けないといけないと思うし、ひとつのピースとして今は上手く機能してるんじゃないかと思います」

厳しい見方をすれば、ここ3戦の活躍で、関口は期待されるレベルに『ようやく』達したと言える。それくらい、彼への期待値は高かったのではないだろうか――。
そこに至るまでに長い時間がかかったことを、本人も苦笑いと共に振り返る。
「シーズンはじまってから、厳しい時期というか、自分の中でも辛い思いをしながらずっとやってきました。けど、腐らずに前向きに練習に取り組めたことが今につながってると思います」

試合後の彼の言葉には、チームのピースとして求められる役割を成し遂げた充実感があふれていた。
同時に、《ここがゴールではない》との思いも色濃くにじんでいた。
「良いときもあるし悪いときもある。それは常に起こることだと思うので、今の結果に満足せず、これからも謙虚に1日1日の練習をやっていきたいです」
彼と同じように考え、日々、大原で汗を流している選手はまだまだいる。
この日のアシストは、本人にとってはもちろん、彼ら『レギュラーメンバー以外』にとっても特別な価値のあるものだったはずだ。
(了)

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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第4回)

(第3回はこちら)

2013年現在、小林は東京都武蔵野市吉祥寺にある酒屋で働きながら、JFLでのプレーを続けている。
出勤は午前9時。まずは遠方の取引先からFAXで注文があった商品の梱包を行ない、宅急便で送る準備を整える。
それから店の掃除を行なって、10時に開店。
店を開けて以降は、吉祥寺界隈の居酒屋から注文があった品をチェックする。伝票と付き合わせながら倉庫から酒瓶を取り出し、配送用の軽ワゴン車に載せていく。注文分を積み終えたら車に乗り込み、配達へと向かう。届けた先では、カラになった酒瓶や業務用の生ビール樽などを回収してくるのも小林の仕事だ。
1時間あまりを掛けて配達を終えて店に戻った頃には、また新たな注文が舞い込んでいる。再び伝票と付き合わせての品出しから配送と、同じ手順を繰り返していく。

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「サザエさんに出てくる三河屋さん」

チームメイトに仕事内容を聞かれたときには、そう答えることに小林はしている。
それが最も手っ取り早く理解してもらえるからだ。
18時に店を上がると、自転車で6、7分の距離にある横河武蔵野FCの練習場へと向かい、19時からのトレーニングに備える。
仕事は月・水・木・金曜日の週4日。
一方、チームのスケジュールは月~金で練習をこなし、土曜日か日曜日に公式戦を行なうことがほとんどだ。そして大抵の場合、月曜日がオフとなる。
しかし、その日の小林には酒屋での仕事が待っている。
本当に何も予定がない純然たるオフと言える日は、1年のうちでも数えるほどしかない。
そんなふうにして過ごす横河でのシーズンも、今季で6度目となる。
浦和レッズから契約満了を言い渡された直後の2004年からの3シーズン、そして2011年からの3シーズン、小林は横河の青と黄色のユニフォームを着て戦ってきている。
現在の酒屋でのアルバイトは、レッズを離れて3シーズン目、2006年にはじめてお世話になった。現在はいわば「出戻り」の形だったが、店主は快く迎えてくれた。


酒屋で働きはじめる以前、小林はいくつかの職を転々としている。
最初についた仕事は、実家のある板橋区のラーメン屋でのアルバイト。求人情報誌で見つけたものだった。
月曜日から金曜日までの週5日、10時から17時まで、皿洗いにはじまり麺を茹でる係なども担当。アルバイト後、電車を乗り継いで三鷹駅まで行き、そこから歩いてグラウンドへと通っていた。
このラーメン店には1年1ヶ月ほど務めたのだが、練習場へと向かう際に乗り換えが2回必要だったため、よりアクセスの良い勤務先を探して辞することとした。
その後、テレフォンアポインターや工場での日雇い仕事などを挟み、新宿にあるイタリアンレストランでホール係の職を見つける。

アルバイトをしながらサッカーを続けるのは、苦ではなかったのか ―。
小林に尋ねると、「苦でも何でもなかったです」との答が返ってきた。
同期加入のプロ選手たちがアルバイトに精を出す必要もなく、サッカーに集中できる環境にあったことを、羨むこともなかったそうだ。
「バイトとかしたことなかったから、知らない世界というか、新鮮で楽しかったですよ」
小林はそう続けた。
何より、彼には明確な目標があった。

「もう一度プロ選手になって、サッカーをしたかった。レッズでは結局はデビューできないまま終わってしまっていたので、ひたすらそこを目指して必死でやってました。だから、辛いとか思う暇もなかったという感じですね」

横河武蔵野FCでは、遠征費はクラブが負担してくれたものの、出場給や勝利給をはじめとしてサッカーをプレーすることで貰えるお金はなかった。その意味で、純然たるアマチュアだったのだ。

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当然と言うべきか、JリーグとJFLにはレベルの差があった。
「サテライトでギリギリだった自分が、JFLでは『余裕をもって』まではいかないですけど、普通にプレーできた。そういう差はありました」
小林はそう振り返る。
しかし、そういった環境下でも、レッズでの2年間では圧倒的に不足していた試合経験を着実に積むことで、小林は少しずつ力を伸ばしていく。
監督の古矢は、小林が加入したシーズンの開幕戦から彼を先発で起用してくれたのだ。

「その中で、どうすればもう一度プロになれるかを考えたら、FWなので結果を出すしかない。そこだけにフォーカスしていましたね」

再びプロになるために自身の結果にこだわることは、ある意味では、小林のわがままとも言えた。
だが、幸いにもそれを許容してくれる環境が横河にはあったと、彼は感謝の念を込めて語る。
たとえば、4-4-2システムで2トップを組んだ相棒の村山浩史。
後にサポーターから『ミスター武蔵野』と呼ばれる存在となる村山は、レッズユースの先輩でもあった。村山は4歳上のため一緒にプレーしたことこそなかったが、村山のひとつ下の学年に小林の兄が
いたこともあり、昔から名前だけは知っている選手でもあった。
その村山は、レッズユースから青山学院大へと進み、小林がユースからトップチームへ昇格した2002年に横河電機の社員となり、横河武蔵野FCの前身たるサッカー部の一員となっていた。

横河での小林は、元Jリーガーとはいえ新人であることに変わりはなく、また、年齢もチーム内で下から2番目という若さだった。
そんな小林に対し、チームのエース格である村山をはじめ、先輩選手たちは一様に優しかった。

「ヨースケの自由にやっていいから」

試合前に彼らが掛けてくれるその言葉は、まだまだ経験の浅い小林の心をずいぶんとリラックスさせてくれるものだった。

試合の際のメンタル面でのサポート以外にも、小林がチームメイトの助力を感じた場面がある。
彼らは練習後毎日のようにシュート練習に付き合ってくれた。
GKの井上敦史もそのひとり。
コンサドーレ札幌から契約満了を言い渡された井上は、小林と同じく2003シーズン終了後のトライアウトを受けた末、横河の一員となっていた。6歳年上の彼は浦和市立高出身という近しさもあってか、小林のシュート練習の相手をいつでも務めてくれた。
もっとも、練習後に小林が「シュート練習やりましょうよ」と言い出すまでもなく、「やろうぜ!」と誰かが口にする雰囲気が、当たり前のものとしてチームにはあった。
19時にスタートするチーム練習は21時少し前に終わる。それからグラウンドの照明が落ちる21時20分まで、小林は仲間と共にシュート練習に没頭した。

そのグラウンド上には、練習参加したあの日に小林が感じたのと同じものが、彼に横河加入を決意させたサッカーへの情熱が、たしかに存在していた。
2004年、横河での1シーズン目。
前・後期それぞれ15ゲームずつ、全30試合のリーグ戦が行なわれ、小林は29試合に出場。12ゴールを記録した。

(第5回へつづく)



※写真1枚目は今年9月、筆者が撮影したものです。
※写真2枚目は2004年3月に埼玉スタジアムで行なわれた浦和レッズとの練習試合後のものを、サポーターの方からご提供いただきました。


※この原稿はメールマガジン第9号(2013年10月3日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『関口訓充が見せた光明』

●あなたの『?』に答えます 『濱田水輝の期限付き移籍について』
        
●『記憶に残るあの一言』

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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第3回)

(第2回はこちら)


トライアウトで2ゴールを記録した小林陽介には、ふたつのクラブが興味を示していた。
J2モンテディオ山形とJFLの横河武蔵野FCだ。

できるならば、Jリーグチームへ。
当然、そう思っていた。
だから、《とりあえず、練習には参加してみよう》程度の気持ちで、小林は横河の練習グラウンドへと車で向かった。
埼玉県内で行なわれたモンテディオのセレクションを受けた翌日、12月11日のことだ。

東京都武蔵野市にある横河電機本社。道路を挟んで向かい側に、練習用のサッカー場兼ラグビー場はあった。5分も歩けばJR三鷹駅に至る場所だ。近隣には、オフィスや飲食店・マンションなどが建ち並んでいる。駅に近いエリアに特有の雑多な街並みの中で、ライトに照らし出されたそのグラウンドは「忽然」と現れた感があった。両ゴール裏、背の高い防球ネットに隣接する道路には、三鷹駅から吐き出されてきたであろう人たちの家路を急ぐ姿が絶えない。
土のグラウンドは、その日降っていた雨のためドロドロだった。グラウンド脇には更衣室と筋トレルームも併設されていたが、大原サッカー場の設備にくらべると、どうしても全てが一段ずつグレードが下がるように、小林の目には映った。
体のケアをしてくれるマッサーもいないという。

横河を率いる監督・古矢武士は33歳とまだ若かった。その古矢から、トライアウトでの自身への評価を聞かされた。
古矢はゴール前での自分の動き、常に裏を狙う姿勢を買ってくれていた。素直に嬉しかった。
チーム体制についても説明を受けた。
横河武蔵野FCの母体は横河電機サッカー部で、部員はみな横河電機(株)の社員だった。
しかし2003年からクラブチームへと運営体制が変更され、社員以外の人間も選手として受け入れるようになっていた。
小林が練習に参加した時点で、所属選手の半数以上は横河電機の社員だったが、他の選手たちはそれぞれが別の仕事をして生活を維持していた。そのため、チーム練習は各自が仕事を終えてから参加できる19時スタートに設定されていた。

小林に提示されたオファーは、あくまで選手としてのものであり、横河電機の社員にという待遇ではなかった。プレーするだけで生活が保証されるわけではなく、自身で別に仕事を探さなくてはなら
ない。

「他からオファーがあったら、早目に言ってくれな。ウチは最終手段でいいから」

古矢の、自分たちが提示する条件を卑下するような言葉に、小林は曖昧な相槌を打つことしかできなかった。

小林にとって最も重要だったのは、競技レベルでサッカーを続けることだった。
理想はJリーグクラブでのプレー。
しかし、もしそれが望めないのであれば、JFLは次善の選択と言えた。
金銭面の不安やハードの不備など、気になる点はあった。しかし、それ以上に小林が重きを置いたのは、一緒にプレーすることになるかもしれない選手たちのことだった。
《結構、なあなあの雰囲気でサッカーしてるのかな。もしそうなら、ちょっとイヤだな……》
そう思っていたのだ。
そして、午後7時にはじまった練習が終わる頃には、《できるなら、ここではやりたくないなぁ》という感想を、小林は心の奥底に抱いていた。

あまり良いとは言えない第一印象が変わるのは、翌日、練習参加2日目のことだ。
紅白戦をする段になった途端、選手たちの顔つきが変わったように感じられたのだ。そして、実際にゲームがはじまると、まずいプレーには選手間で意見が飛び交った。攻撃でも守備でも、より良いプレーを追究しようとする姿勢が随所にうかがえた。
サッカーに対する熱さ、真摯さが、土のグラウンド上にあった。
それは、小林が予想していた以上のものだった。

《ここでやるのも、いいかもな……》

そんな思いが、芽生えはじめた瞬間だった。



年も押し迫った12月27日、小林は浦和レッズのクラブ事務所へ出向いた。
お世話になった人たちへ最後の挨拶をするためだ。

まだ移籍先は決定していなかった。
山形のセレクションでは合格を勝ち取れず、横河からも正式なオファーは届いていない。年明け1月8日に予定されているシーズン2度目の合同トライアウトに再び参加し、また別のオファーが来るのを
待つしかないかと考えていた。
そのことを強化部長の中村修三に話すと、彼はその場ですぐに横河の強化担当者に電話を入れてくれた。
数分後、電話を終えた中村は傍らで待つ小林に告げた。
「横河、OKだって」

ハード面では恵まれているとは言えないチームだ。練習や試合の時間を確保できるような職場を探す困難も気になりはした。
しかし、横河の監督は自分を評価してくれていた。選手たちが持つサッカーへの情熱にも、あのときたしかに触れていた。

両親にも、友人にも、誰にも相談することなく、20歳の小林は横河でプレーすることを決意した。

(第4回へつづく)

この原稿はメールマガジン第9号(2013年9月26日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『ロブソン・ポンテと梅崎司


●WARRIORS IN RED ― リライト & こぼれ話 加藤順大
        


などです。

なお、『人生は上々だ 小林陽介 第4回』は10月3日配信のメールマガジン最新号に掲載しております。



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人生は上々だ ― かつての『レッズ』に会いに行く 小林陽介(第2回)

    (第1回はこちら)


2003年12月9日、Jリーグ合同トライアウト。
センターサークルに立った小林は、《点を取ろう。自分を信じて、思い切って行こう》と、再度心の中でつぶやいた。

黄色いビブスのC対青いビブスのD。
先制は小林たちだった。
8分、ペナルティアークに立った小林に縦パスが入る。ほぼ同時に、青いビブスを着けた味方が、自分の外側を駆け上がってくるのが視界に入った。
DFを背負った小林は、ターンしつつ右足のインサイドでワンタッチして自分の斜め後ろ、ペナルティエリア内右へとボールを流した。青いビブスの『40』が走りこみ、小林に付いていたDFが追走してファウル。PKを獲得する。

その瞬間、ちょうど1ヶ月前の試合が小林の脳裏によみがえっていた。
熊谷で行なわれたベガルタ仙台とのサテライトリーグ最終戦、小林はPKを外していた。インステップで思いきり蹴るのが彼のスタイルだったが、この仙台戦の際には、なぜか弱気になり、右足インサイドで置きにいってしまい、結果、GKに止められていた。試合は、2-3で敗れている。

PKを得た『40』番の選手はペナルティマークへと向かわず、後方の自分のポジションに戻っていった。
《・・・誰が蹴るんだろう?》
そう思っていると、「コバ!」と声がした。
それが自分を呼ぶものだと理解するのに、一瞬だけ間があった。
声の主は、大宮アルディージャの大塚真司。
Dチーム内でも年長の彼に目線でPKを蹴るよう促され、小林はペナルティマークに向かった。

サテライトの試合でPKを外したときから、次にチャンスが巡ってきたら思いきり蹴り込むと決めていた。
自分の手でボールをセットし直し、助走を取ってから、右足のインステップでゴール左を狙う。
ボールは、ゴール左上のネットを突き刺した。

その後、彼らは17分に同点弾を許す。
PKでのゴールで、《点を取ろう》という最低限の目標は果たしたと思っていた小林は、1-1とされ、《もう1点取る!》と思い直す。

試合は一進一退の攻防で続いた。
パスを出してくれるか不安だった湘南のサントスも小林のパスにリターンで応えるなど、チームプレーを重視してくれた。
彼に限らず、トライアウトだからといって、わがままなプレーに走る選手はいなかった。
そして26分、カウンターのチャンスが青チームに訪れる。
中盤右サイドにボールが渡ると、小林は早い動き出しでパスを呼び込む。
ペナルティアーク右脇付近でワンタッチしエリア内へ侵入し、2タッチ目に右足インステップでシュート。
トラップの瞬間、心の中で「決めるっ!」と、小林は叫んでいた。
シュートの瞬間は無心だった。
ボールは、GKの正面に向かったが幸いにも股間を抜けてネットを揺らす。
《気持ちが伝わったのかな》と思わされるゴールだった。
レッズでは、練習中のゲームも含め、絶好機に限ってシュートを外すことが多かっただけに、このゴールには感慨もあった。

開始から35分が経過し、2-1のまま試合終了のホイッスルを聞く。
《最低限のアピールはできたかな》との手応えがあった。
この日1日だけのチームメイトが集まり、互いに健闘をたたえ合う。小林に対しては、皆が口々に「ナイシュー!」と賞賛してくれる。
それが嬉しかった。

グラウンドでは、引き続きE対F、G対Hの試合が順に行なわれていった。
その間に味の素スタジアム内の風呂に入り、着替えも済ませる。
携帯電話を見ると、着信があり、留守番電話のマークも点灯していた。確認してみると、レッズ強化部スタッフから「すぐに電話をくれ」とメッセージが吹き込まれていた。

《もしかして―》

淡い期待を抱きつつ、折り返し電話を入れる。
JFLの横河武蔵野FCから練習参加のオファーがあったと報された。さらに数十分後には、J2モンテディオ山形からも、独自に開催するセレクションに参加してもらいたいとの申し出があったことが伝えられた。

まだ契約を勝ち取ったわけではない。

《でも、自分を評価してくれる人がいる》

レッズから契約満了を言い渡されてから2週間あまりの間で、20歳の青年の身に舞い降りた最良の出来事だった。

(第3回はこちら)

この原稿はメールマガジン第7号(2013年9月19日配信)から転載したものです。
他のコンテンツは

●大原ノートから 『矢島慎也・野崎雅也とJリーグの20年』『2015年からの改革を前に今、Jリーグがすべきこと』

●記憶に残るあの一言
        
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『役割』 ヴァンフォーレ甲府戦 山岸範宏 興梠慎三

90+6分、ヴァンフォーレ甲府の青山直晃にボールを押し込まれた直後、山岸範宏の口から叫び声がついて出た。
しかし、数瞬の後には切り替え、彼は自らの手でボールをセンターサークルへと送っている。

山岸が今季初出場を遂げたのは9月7日。ナビスコカップ準決勝第1戦だった。
2-0とリードした後、3度、背後のネットを揺らされている。
どの失点の形も、彼に止めることを要求するのは酷なものではあった。
「でも、3点ともラストパスを出す選手、シュートを打つ選手への寄せがちょっと甘いかもしれないから、もっと行かせないと」
試合翌日、彼はそう振り返っていた。
「反省のない失点というのはないからね」
彼の以前からの信条だったが、直接聞くのは久しぶりだった。

もっとも、山岸は失点に関して、プレーとは直接関係のない部分でも反省点を見出していた。
「失点から10分以内にまた失点することが多いんですよね。そこはウチの課題」
川崎戦では、79分に大久保嘉人の豪快な一発で同点にされ、その1分後に逆転弾を喰らっている。

ゴールを奪われた直後にピッチ上の選手たちのメンタルがガクリと落ち、冷静さを失っているように見えることが今季何度かあった。
山岸もベンチ脇から見ている間、同様のことを感じていたらしい。
「失点から10分以内にまた失点することが多いんですよね。そこはウチの課題」と語った。
そしてその課題を、自分が何とかできないのかと考えてもいた。

「失点した後に、悪くなった流れを切るということが必要。年齢とかチーム内での立ち位置を考えても、それは自分の仕事のひとつなのかな……、と思います。そこはもっと自分もやっていかないといけない。大きな反省点のひとつ」

川崎戦から2週間が経った甲府戦、複数の決定機を防いできた山岸は、アディショナルタイムにネットを揺らされた。
そして、自らの手でセンターサークルへとボールを送り返した。
その直後、ペナルティエリア内に肩を落とした選手がまだ留まっているのを目にして、自らがエリアの外まで出て、チームを鼓舞した。両手を後ろから前方へ掻き出すように動かし、彼らの意識を、背中を『前へ』と押していた。


まもなく試合終了の笛が鳴ると、興梠慎三は仰向けにピッチに倒れ、荒い息を継いだ。

「チームが勝てば、自分はどうでもいいんすよ」

興梠はそう公言して憚(はばか)らない男だ。

「チームが勝ってるなら、『僕は自分の数字にはそんなこだわってないんですけどね』って思うんですよ。『チームが勝ってるなら、いいじゃないですか』って」
FWとして、得点を挙げるということから逃げているわけではない。
欲がないわけでもない。
興梠が『チームの勝利』を最重要視するのは、彼が人一倍、優勝にこだわっているからでもある。
ホームでの大分トリニータ戦、1-3とリードされて迎えたハーフタイムに、彼が「優勝したくないんか!」と語気を強めて口にしたことは、ファン・サポーター諸氏はご存知のはずだ。

もうひとつ、興梠が自分が得点することに強く固執しない理由がある。
得点以外のプレーも評価してもらいたいという思いを抱えているということだ。
だからこそ、彼はレッズサポーターに感謝している。
「自分で言うのもなんですけど、アシストしたり身体張ってキープしたり、レッズのサポーターはそういうのをちゃんと見てくれて、応援してくれてるんだなって思います」
移籍から数カ月を経たころ、彼は嬉しそうにそう語っていた。

今日の甲府戦、89分、山岸が前線へ大きく蹴り出したボールを、興梠はDF2人の圧力をものともせずに胸トラップで収めた。さらには自らの身体を盾とするようにボールを守り、相手の3人目が戻って来るとフォローについた味方へとボールを浮かせて逃がした。まもなく90分にという段階で見せた、力強さと軽妙さを兼ね備えることを示すそのプレーに、スタジアムには割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

あの拍手は、彼の耳に届いていたのだろうか。
届いていたと思いたい。
試合後、それを確認することは叶わなかった。
ミックスゾーンで報道陣から声をかけられた興梠は、「今日は勘弁してください」と言うように手を挙げ、去って行った。
筆者はミックスゾーンでの彼の行動をいつも追っていたわけではないので確証はない。だが、僕が見てきた限りでは、彼が無言で去ったのは浦和に来て以来はじめてのことだ。
もっとも、何より雄弁だったのは試合終了後の彼の行動だろう。

両チームの選手が互いに握手を終えると、サポーターへ挨拶に向かうチームメイトの流れとは逆方向に、興梠だけが歩き出した。
身体を引きずるようにしてベンチに辿り着くと、RECARO製のスタジアムシートにへたり込んだ。

そんな興梠を連れ戻しに行ったのが山岸だった。
「慎三は悔しさを滲ませながらベンチに戻っちゃったけど、サポーターへの挨拶は全員で行かなければいけなかったから、呼び戻しました。あれで呼び戻さなかったら、あのまま1周しちゃってたと思うから」
山岸はそう振り返る。
「どういう結果であろうと、僕らは結果を受け止めるしかない。勝てなかった後にサポーターのブーイングを浴びるのも、浦和の選手である責任だと思うから。だから、慎三も行かなきゃ駄目だと思って呼びに行った」、と。

たしかにこの日、浦和レッズは勝ち点2を失った。
しかし、それでも首位とのポイント差は4、残る試合数は8。
まだ下を向くには早すぎる。

(了)

【追記】

山岸がベンチに甘んじていた期間そうしていたように、この日の加藤順大も、試合後に肩を落とす仲間を励まして回っていたことを付記しておきます。

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プロフィール

小齋秀樹

Author:小齋秀樹
1970年12月18日、宮城県生まれ。仙台第一高校→早稲田大学卒業。
サッカー選手のインタビュー、ノンフィクション執筆をメインに活動するJリーグ登録フリーランスライター。

著書は『goalへ―浦和レッズと小野伸二』(文藝春秋)、『敗戦記』(文藝春秋)。

サッカー専門誌や『web Sportiva』、『Sports Graphic Number』への寄稿のほか、浦和レッズのホームゲームで発行・販売される『オフィシャルマッチデープログラム(MDP)』にて『WARRIORS IN RED』を連載中。

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